崔珙 さいきょう
?-854
中唐の宰相(任840-843)。唐代に「七姓十家」と称され、唐初に編纂された『氏族志』では唐室李氏を抑えて一等とされて太宗の怒りを買った名門中の名門である博陵崔氏第二房の出身。
崔頲の子。
崔琯の弟。
崔璪・
崔瑨・
崔璵・
崔球・崔珦の兄。牛李の党争では李党に属する。抜萃科に及第。泗州刺史、嶺南節度使、徐泗節度使、京兆尹を歴任。京兆尹の時に
李石襲撃事件の犯人を捕らえられなかったため譴責された。刑部尚書・諸道塩鉄転運使となり、開成五年(840)五月、同中書門下平章事(宰相)、諸道塩鉄転運使、中書侍郎となる。会昌二年(842)には尚書左僕射に昇進した。会昌三年(843)二月、兄の
崔琯の喪と、病気によって宰相辞任を願い出て、罷免された。すると
崔鉉に塩鉄使時代の乱費と、沢潞節度使
劉従諌の悪事を隠蔽したと弾劾され、澧州刺史、さらに恩州司馬に左遷された。後に商州刺史、鳳翔節度使を歴任した。子に
崔涓がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2026年10月20日 00:37