万国俊
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唐代の官吏。洛陽の人。垂拱年間(685-688)に
来俊臣とともに『羅織経』をつくり、宗室・貴族を殺害した。右台監察御史・同按制獄となる。長寿二年(693)、帝に封事を上言した嶺南流人の陰謀があり、派遣されて斬刑とし、広州より流人を召して別所に置き、自尽を強制し、冤罪を不服として泣くものを引き出して誅戮を加えること三百余人に及んだ。また流人がいずれ叛意をおこすと上表して剣南・黔中・安南などの六道の流人が殺害されることになった。朝散大夫、粛政台侍御史となった。万国俊が殺害によって栄貴を加えられたのを見習って、
劉光業は九百人、
王徳寿は七百人を殺し、その他も少なくとも五百人は殺された。武后は後にその冤罪を知って、六道使に殺害された家の者を本管に逓送させた。国俊らはにわかに相次いで死んだが、皆鬼物の祟りとみたという。『旧唐書』に伝がある。
列伝
『旧唐書』巻一百八十六上 列伝第一百三十六上 酷吏上 万国俊
最終更新:2023年12月30日 23:50