巻二百二十三上 列伝第一百四十八上

唐書巻二百二十三上

列伝第一百四十八上

姦臣上

許敬宗 李義府 傅游芸 李林甫 陳希烈


  許敬宗、字は延族、杭州新城の人である。父の善心は、隋に仕えて給事中となる。敬宗は幼き頃より文章を善くし、大業年間(605-618)に秀才に挙げられ、淮陽書佐に任じられ、俄かに謁者台となり、奏通事舎人事となった。善心は宇文化及によって殺され、敬宗は哀請するも死ぬことができず、去って李密によって記室となった。武徳年間(618-626)初頭、漣州別駕に補された。太宗がその名を聞き、召されて文学館学士となった。貞観年間(626-649)、著作郎に任じられ、修国史を兼任し、喜んで親しい者に「仕官して著作にならなければ、門戸をなすことはない」と言った。にわかに中書舎人に改められた。文徳皇后が喪すると、群臣が衰服したが、率更令の欧陽詢の容貌が醜異であり、敬宗は侮り笑うことがいつものようであったから、洪州司馬に貶された。累進して給事中に転じ、修史に復職し、労によって高陽県男に封じられ、黄門侍郎を検校した。高宗が東宮であったとき、太子右庶子となった。高麗の役で、太子は定州にて監国し、敬宗と高士廉は機密事務を司った。岑文本が卒すると、帝は駅伝にて敬宗を召し、本官を以て中書侍郎を検校させた。駐蹕山で敵を破ると、命によって馬前で詔の草案作成を行い、帝はその飾って聡明なのを愛し、これによって専ら誥令を司った。

  これより以前、太子承乾が廃され、官属の張玄素令狐徳棻趙弘智裴宣機蕭鈞の全員が名を除かれ庶民となり、再び用いられなかった。敬宗は張玄素らのために諫言し、直言のために忌み嫌われ、今一律に罪されようとしたが、赦免寛恕があると思いいまだ至らざるところがあった。帝は悟り、多くを再審して復職させた。高宗が即位すると、礼部尚書に遷った。敬宗は貪欲で厭きることなく、ついに娘を蛮酋の馮盎の子に嫁がせ、多くの聘物を私にした。役人が弾劾して、鄭州刺史に左遷されたが、にわかに復官し、弘文館学士となった。

  帝はまさに武昭儀(後の武后)を立てようとしたが、大臣が切諫した。しかし敬宗は陰で帝の私心をおしはかり、妄言して、「田舎の十斛の麦を得られるかどうかの者であっても、なお妻を変えたいと思うのです。天子の富は四海にありますが、一后を立てるのに、これを駄目だというのはなぜなのでしょうか?」と言ったから、帝は思いをついに定めた。王后が廃されると、敬宗は后家の官爵を削り、廃太子忠を代王に立てることを願い出て、遂に太子賓客を兼任した。帝は欲するところを得て、そのため敬宗に詔して待詔武徳殿西闥とした。しばらくして侍中・監修国史を拝し、郡公の爵位を得た。

  帝はかつて故長安城に行幸して、所々に止まっては徘徊し、古の区処を視て、侍臣に「秦・漢以来、どれほどの君がここを都としたのか」と問うた。敬宗は「秦は咸陽にいて、漢の恵帝がはじめてここを城としました。その後苻堅・姚萇・宇文周がここに居ました」と答えた。帝はまた「漢の武帝が昆明池を開いたのは実に何年であるか」と問うたから、答えて「元狩三年(前120)で、まさに昆明を討伐しようとして、実にこの池をつくって戦いの訓練をしたのです」と答えた。帝はそこで詔して弘文学士とともに古の宮室故区を検討させ、一つ一つ詳細に上奏させた。中書令に進み、よって侍中を守った。敬宗は立后に助力があり、武后が冷徹暴虐であることを知っていたから、よく主を固めて自身の権力を久しくし、そこで后と陰謀して韓瑗来済褚遂良を放逐し、梁王長孫无忌上官儀を殺し、朝廷の重足となって仕え、威寵は光り輝いていて、当時は比較するものはなかった。右相に改め、病により辞職したが、太子少師・同東西台三品を拝した。年老いて、趨歩ができなくなり、特に詔して司空の李勣とともに朝朔日に、小馬に乗って内省に至ることを聴(ゆる)した。

  帝は東行して泰山を封じ、敬宗を領使とした。濮陽に行き、帝は竇徳玄に「ここを帝丘というのはどうしてなのか?」と問うたが、竇徳玄は答えられなかった。敬宗は割り込んで「臣はよく知ってます。昔、帝顓頊が始めてこの地にいて、王となって天下を治めました。その後夏后もここによりましたが、寒浞のために滅ぼされました。后緡はまさに妊娠していて、城墻の水門から逃げ出して、この地にいました。後に昆吾氏がここによって、夏伯となりました。昆吾が衰えると、湯がこれを滅しました。その頌(毛詩)に『まず韋と顧とを討伐し、次いで昆吾と夏の桀王を追放した』とあるのはこれです。春秋の時代になると、衛の成公が楚丘より遷ってここにいましたが、左氏伝に『(夏王の)相が自分へのお供えを奪った』とあるのは、旧地であるからです。顓頊がいるところであるから、帝丘というのです。臣はこう聞いています。有徳の者はその国土を開き、失道の者はその国土を失うと。古より大いなる都、美しい国、居する者は一姓ではなく、そのため国家にある者は慎まないということをしてはならないのです」と言った。帝は「書(夏書・禹貢)に『済水から漯水に船を浮かべ』とあって、今済水と漯水は断絶して繋がっていないが、何故そうなったのか?」と言った。答えて「夏の禹は沇水を東に導いて流して済水とし、黄河に入れました。今漯水より温水に至るまで黄河に、水はこれより地を渦巻いて流れて黄河を過ぎて南流し、出でて滎沢となり、また渦巻いて流れて曹・濮に至り、地に散出し、合せて東流し、汶水は南より流入します。いわゆる『余水を集めて滎沢とし、東して陶丘の北に出で、また東北して汶水に合わせ』(史記・夏本紀)とあるのはこれです。古は五行にはそれぞれすべてに官があり、水官は職を失わず、そこでよく味と色を語ってきました。潜っては出て、合流してはさらに分流しますが、すべてよく識っています」と答えた。帝は「天下の洪流巨谷は、祀典に載せられていないが、済水はとても細いのにも関わらず四涜となっているのは、どうしてなのか?」と問うた。答えて、「涜(とく)の言いは独(どく)です。他の河水によらず、ただ一河のみで海に流れます。また天に五星あり、運に四時があります。地に五岳があり、流れに四涜があります。人に五事があって四支となります。五は陽数で、四は陰数で、奇数・偶和・陰陽があります。陽は光曜で、陰は晦昧で、そのため辰隠れて見えにくいのです。済水は流れが潜ってしばしば断絶し、形は微細であるとはいえ、独立しているから尊いのです」と答えた。帝は「よし」といった。敬宗は退くと、誇って「大臣は無学であってはならない。竇徳玄は答えられなかったが、私はこれを恥じている」と言った。竇徳玄はこれを聞いて潔しとはせずに「人にはそれぞれ能力があって、努めない所を知らないのは、私のよしとするところなのだ」と言った。李勣は「敬宗は多く聞くのを美とする。竇徳玄が努めないというのはまた善くないことではないのか?」と言った。

  それより以前、高祖・太宗の実録は、敬播が撰するところであり、信憑性があって詳細であった。敬宗が国史となると、改竄して公平ではなく、専ら己が私より出た。さらに以前、虞世基と許善心が同じく賊のために殺害されたが、封徳彝はいつも「昔、私は虞世基の死を見たが、弟の虞世南は這いつくばって身代わりとなるのを願い出た。許善心の死では、子の許敬宗は踊って命乞いをした」と言っていたから、世の人は口実として、敬宗は心に怒りを抱いた。封徳彝の伝を立てると、盛んにでっち上げて悪しざまに書いた。敬宗の子は尉遅敬徳の女孫を娶り、娘は銭九隴の子に嫁いだ。銭九隴は、もとは高祖の奴隷であり、偽りをなして門閥の功状となし、劉文静らと伝を同じくするに至った。太宗は長孫无忌に「威鳳賦」を賜ったが、敬宗は勝手に尉遅敬徳に賜ったのだとした。蛮酋の龐孝泰は兵を率いて高麗討伐に従ったが、敵はその臆病さに笑い、襲撃しこれを破った。敬宗はその金を受け取り、そこで「しばしば賊を破り、唐将で驍勇といえばただ蘇定方と龐孝泰であり、曹継叔劉伯英はその下に出て遠く及ばない」と書いた。しかし貞観年間(626-649)より以後、論次の諸書で、晋より隋まで、『東殿新書』・『西域図志』・『姓氏録』・『新礼(永徽五礼)』等の数十種はすべて敬宗が総監し、賞や賜い物はあえて記すことができないほどであった。

  敬宗は邸宅を造営し、驕って連楼を造り、諸妓をしてその上を馬で走らせ、酒をほしいままにし音楽を演奏して自ら楽しんだ。その婢(はしため)を寵愛して、継室とし、仮に姓を虞氏とした。子の李昂がこれと密通し、敬宗は怒って虞氏を追放し、奏上して李昂を嶺外に退け、しばらくして上表して帰還した。

  咸亨年間(670-674)初頭、特進によって致仕したが、朔望に参朝したため、俸禄は続けて支給された。卒し、年は八十一であった。帝は挙哀し、百官に詔してその邸宅にて哭し、贈開府儀同三司・揚州大都督に冊し、昭陵に陪葬された。太常博士の袁思古は議して、「敬宗は子を辺境に棄て、娘を蛮族の集落に嫁したから、諡して「繆」とする」と言ったが、その孫の許彦伯は袁思古と仲が悪かったから、詔してさらに議させた。博士の王福畤は、「何曾は忠にして孝であったが、日に万銭を食に費やしたから「繆醜」と諡したが、ましてや敬宗は忠も孝も両方棄て、男女と飲食の累はこれよりもひどかった」と言い、執行しながらも改めなかった。尚書省に詔があって雑議し、さらに諡して「恭」とした。

  許彦伯は、昂の子である。すこぶる文をよくした。敬宗の晩年には再び筆を下すことはなく、おおむね大典冊のことごとくを彦伯が作成した。かつて敬宗は戯れに李昂に「我が子は幼子に及ばない」というと、答えて「この子の父は昂の父に及ばないでしょう」と言った。後にまた婢の讒言を入れ、彦伯を嶺表に流すことを奏上し、赦免によって帰還して、累進して官を太子舎人となった。既に袁思古と仲が悪く、諸路で迎え撃とうとしたが、袁思古が「私はお前に先んじて報復するのみ」と言ったから、彦伯は恥じて止めた。

  垂拱年間(685-688)、詔して敬宗を高宗の廟廷に配饗した。


  李義府は、瀛州饒陽の人で、その祖はかつて射洪丞となり、永泰年間(498)に客人となった。貞観年間(626-649)、李大亮は剣南を巡察し、義府の才を表し、対策に及第し、門下省典儀に補任された。劉洎馬周はさらに推薦し、太宗は召して謁見すると、監察御史に転任し、詔して晋王(後の高宗)に侍った。晋王は太子となり、舎人・崇賢館直学士に任じられ、司議郎の来済とともに文翰によって名をあらわし、時の人は「来李」と称した。「承華箴」を献上し、末語に「おべっか使いの類がいれば、邪悪な企みがあちこちに多くなる。その萌芽は絶えず、その害は必ず彰らかになる」とあったが、義府はまさに太子に諂い仕えていて、文は直言してはばからないかのようであった。太子はこの文を上表し、お褒めの詔があって帛を賜った。

  高宗が即位すると、中書舎人に移り、修国史を兼任し、弘文館学士に進んだ。長孫无忌に憎まれ、上奏によって壁州司馬に排斥されるところであったが、詔がいまだ下る前に、義府は計略を舎人の王徳倹に問いただした。王徳倹は許敬宗の甥で、腫物があったが智恵者で、計略をよくしたから、「武昭儀はまさに寵があり、お上は后に立てたいと思っていますが、宰相に議るのを恐れて、未だ発覚していません。あなたはよく建白し、禍を福に転じるのです」と言った。義府はそこで王徳倹に代わって夜の当直となり、閤を叩いて上表し、王皇后を廃して武昭儀を立てることを請うた。帝は喜び、召見してともに語り、珠一斗を賜い、壁州司馬に左遷される詔書は停止され、留ってまた太子に侍った。武后が立后されると、義府と許敬宗・王徳倹、および御史大夫の崔義玄・中丞の袁公瑜・大理正の侯善業は互いに推挙し合い、その企みが済むと、硬骨の大臣は誅殺され、そのため武后は志をほしいままにすることができ威権を盗み、天子は襟を正した。

  義府の容貌は柔和で慎みがあり、人と話せば、嬉しそうに微笑していたが、人を害する心を持ち、心にゆとりがなく妬み深さを心に現れていた。概ね思いもよらずに皆中傷されたから、時の人は義府を号して「笑の中の刀」と言った。また上辺は柔らかいのに物を害するから、「人猫」と号された。

  永徽六年(655)、中書侍郎・同中書門下三品を拝し、広平県男に封じられ、また太子右庶子を兼任し、爵位は侯爵となった。洛州の女子の淳于が犯罪により大理に繋がれ、義府はその美しさを聞き、大理丞の畢正義に出獄させ、納れて妾としたが、大理卿の段宝玄がこれを上聞した。給事中の劉仁軌・侍御史の張倫に詔して、尋問・断罪させ、義府はまさに窮して、畢正義に迫って獄中で縊死させて口封じした。侍御史の王義方は朝廷で弾劾したが、義府は咎を引かず、三たび叱責され、その後に走り出ていった。王義方は極めてその悪を述べたが、帝は義府に秘かな貸しがあったから不問とし、王義方を抑えるために放逐した。しばらくもしないうちに中書令に進み、御史大夫を検校し、太子賓客を加え、さらに河間郡公に封じられ、詔によって私邸を造った。諸子は乳飲み子であったが皆清官に補任された。

  初め、杜正倫が黄門侍郎となり、義府はわずかに典儀であった。同じく輔政するにおよんで、杜正倫は先任であることに恃んで相下さず、密かに中書侍郎の李友益とともに義府の排斥を測ったが、反って誣告され、交えて帝の前に訴えた。帝は両方斥け、杜正倫を横州刺史に、義府を普州刺史に、李友益を峰州に流した。翌年、召されて吏部尚書・同中書門下三品となった。母の喪で免官となったが、奪喪によって司列太常伯・同東西台三品となった。さらにその父を永康陵の側に葬り、県人の牛車を徴発して土を運んで墳墓を築き、徴発を助けるものはおよそ七県で、高陵令は労に堪えられずに死んだ。公卿はあらそって喪事をたすけて贈物を贈った。葬送の日、御史に詔して節哭させた。葬車を送るのに騎を従えて互いに銜(はみ)させ、帳は灞橋より三原に属して七十里も絶えず、葬車を動物に曳かせたが、奢侈が過度で法にかなわず、人臣の送葬の盛んなこと、これと比するものはなかった。殷王(後の睿宗)が宮中を出たから、殷王府長史を兼任し、しばらくして右相に遷った。

  義府はすでに貴くなったから、そこで系譜を趙郡より出ると言い、諸李氏と昭穆を叙述した。無頼の者で往々として義府を尊んで父兄となす者が横行した。給事中の李崇徳は義府を引き入れて系譜に組み入れたが、義府が普州に流謫されると、しばらくして系譜より削除したから、義府はこれを恨み、国政に復すると、その罪を並べて獄中で自殺させた。貞観年間(626-649)、高士廉韋挺岑文本令狐徳棻が『氏族志』を編修し、上も下も天下はその議を許し、ここに州に副本を蔵めて永遠の法度とした。その時、許敬宗は武后の本望が載らず、義府もまた先祖が書かれていないことを恥じ、さらに刪正を奏上した。孔志約・楊仁卿・史玄道・呂才らに委ねてその書を定めさせ、唐に仕えて官は五品に至る者はすべて士流に昇進した。ここに兵卒で軍功を進める者も、ことごとく書ける限りは入れ、さらに『姓氏録』と号したが、搢紳は共に嘲笑して、「勲格」と号した。義府は奏上してことごとく前の『氏族志』を回収して焼き捨てた。魏の太和年間(477-499)より望族(六朝・隋唐の名族)は定まり、七姓の子孫は互いに通婚し、後にますます衰えたとはいえ、なおも互いに尚んだ。義府は子のために求婚してもできなかったから、遂に奏上して通婚を一切禁止させた。

  義府はすでに主に選ばれ、無品である者の才能を鑑別することとなったが、欲望が次から次と起こって満足を知らず、賄賂を受け利益を得て、また評選や鑑別しないから、人々は嘆息して当てこすった。また母・妻・諸子は売官して利益を得て、その門前は湯が沸くかのようであった。永徽年間(650-655)以後、御史は多く制授(制書にて任官)し、吏部は調注していたとはいえ、義府の門下に至ったから、わざわざ覆して留めるようなことはしなかった。義府はそこで自ら御史・員外・通事舎人に辞令し、役人はあえて断らなかった。帝はかつて従容として義府を戒めて「聞くに卿(なんじ)の子や女婿は法を曲げて過失が多いが、朕は卿のために遮断してきた。少しはつとむべきではないのか」と言ったが、義府は内に武后が座り、群臣が探って敢えてその罪を申す者はないから、帝がこれを知っていても恐れず、そこで突然怒って顔色を変え、おもむろに「誰が陛下にそんなことを言ったのですか」と言ったが、帝は「どうして我れの問いによって従うことができないのか!」と言ったから、義府は憮然として謝らず、おもむろに引き下がったから、帝はこれより喜ばなかった。

  術を会得する者に杜元紀がいて、義府の邸宅を望気すると獄気があったから、「銭二千万を積んで、厭勝(厄除け)すべきです」と言った。義府は信じて、収斂する方法を探すのをことのほか急いだ。母の喪にあい、十五日間の告を賜わり、そこで破れ着を着て杜元紀とともに野に出て、高所より災眚(天災と人災)を窺い見たが、衆は謀があるのかと疑った。また子の李津を遣わして長孫延を召し、「私は子(なんじ)のために一官を得た」と言った。居ること五日、長孫延は司津監を拝命し、謝礼の銭七十万を求めた。右金吾倉曹参軍の楊行穎はその罪を申し、司刑太常伯の劉祥道に詔して三司とともに尋問し、李勣が監按し、罪状があり、詔して除名し、巂州に配流とし、子で率府長史の李洽・千牛備身の李洋および婿で少府主簿の柳元貞をあわせて廷州に配流とし、司議郎の李津は振州に配流とし、朝野は互いに喜び合った。三子および婿は最も凶漢で、失脚すると人は「四凶」が誅されたとした。ある者は「河間道行軍元帥劉祥道が銅山の大賊李義府を破る」の幟をつくって街に立てかけた。乾封元年(666)、大赦があったが、ただ流人は帰還を許されなかったから、義府は怒り憤りのあまり死んだ。年五十三歳。失脚してから天下は再び任用されるのかと憂いていたが、この死によって内外はようやく安堵した。

  上元年間(674-676)初頭、妻子を赦して洛陽に帰還させた。如意年間(692)、義府に揚州大都督を、崔義玄に益州大都督を、王徳倹袁公瑜に魏・相の二州の刺史を贈位し、それぞれ実封を賜ったが、睿宗が即位すると詔して停止した。少子の李湛は、李多祚伝に見える。


  傅游芸は、衛州汲の人である。載初年間(690)初頭、合宮県の主簿となり再び左補闕に遷った。武后が政務を掌握すると、そこで上書して符瑞を詭説し、武后にすすめてまさに姓を革めて受命を明らかにすべきとしたから、武后は喜び、給事中に抜擢された。三か月後に同鳳閣鸞台平章事に昇進し、鸞台侍郎を拝した。武后は唐を退けて周と称し、唐の宗廟を廃し、自ら皇帝と称し、游芸に姓武氏を賜い、兄の傅神童を冬官尚書に任じた。游芸はかつて湛露殿に登る夢を見て、目覚めると親しい者に語ったが、その謀反を密告する者がいて、獄に下されて自殺した。五品の礼にて葬った。

  それより以前、游芸は武后の心内を探り、誣告して宗室を殺し、また六道使を発することを願い出たが、後に卒してからその言は用いられた。万国俊らが出て、天下はその酷政を蒙った。游芸は一年のうち、袍を青色・紫色を賜り、人は「四時仕宦」と号した。しかし年内に失脚し、往古でもこれに比するものは少ないといわれた。


  李林甫は、長平粛王叔良の曽孫である。初め千牛直長となり、舅の姜晈はこれを愛した。開元年間(713-741)初頭、太子中允に遷ったが、源乾曜が執政であり、姜晈と姻家であり、源乾曜の子の源絜が林甫のために司門郎中を求めたが、源乾曜はもとよりこれに冷淡で、「郎官はまさに才望がある者が得るべきで、哥奴はどうして郎中の人材といえるのか?」と言った。哥奴は林甫の小字である。そこで諭徳を授け、累進して国子司業に抜擢された。宇文融は御史中丞となり、引き上げられて同列となり、次第に刑・吏部侍郎を歴た。それより以前、吏部に長名榜が置かれ、定め留まった後に放った。寧王は私事として十人と謁見していたが、林甫が「願わくは一人を罷免して公に示してください」と言ったから、ついに榜はただ一つだけとなり、「王の委嘱によって、冬集(職員の任期満了後、規定の冬期に集結して選考に参加すること)に放つ」とあった。

  時に武恵妃は寵愛されて後宮を傾け、子の寿王盛王は最も愛された。林甫は中人を仲介して妃に申し入れ、寿王を護る万歳となすの計を願い出、妃はこれを徳とした。侍中の裴光庭の夫人は、武三思の娘武氏で、かつて林甫と密通していたが、高力士はもと武三思の家の出であった。裴光庭が卒すると、武氏は高力士に林甫を代わって宰相とするよう願った。高力士が未だ敢えて言う前に、帝は蕭嵩の言によって、自ら韓休を用い、まさに具さに詔しようとしたが、武氏は暴露して林甫に語り、使して韓休の為に伝えた。韓休は宰相となると、重ねて林甫を徳とし、しかも蕭嵩と仲が悪かったから、そこで林甫に宰相の才があると推薦し、武恵妃も陰に助力したから、そこで黄門侍郎を拝した。ついで礼部尚書・同中書門下三品となり、再び兵部尚書に進んだ。

  皇太子鄂王光王は讒言され、帝はこれを廃そうと思ったが、張九齢が切諫し、帝は喜ばなかった。林甫はその場ではあっけにとられ、密かに中人に語って「天子の家の事なのだから、他者がどうして関われようか?」と言った。開元二十四年(736)、帝は東都(洛陽)にあって、長安に帰還したいと思った。裴耀卿らは建言して、「農民の畑はまだ収穫が終わっていません。冬を待って帰還すべきです」と言った。林甫は表向きに苦しんでいるさまを見せ、一人だけ後にいた。帝は理由を聞いたから、答えて、「臣は病気ではありません。奏事を願っていたのです。二都はもとより帝王の東西の宮で、車駕が行幸するのに、何の時を待つことがありましょうか?たとえ農業を妨げたとしても、ただ通過した所の租賦を免除すればいいだけなのです」と答えた。帝は大いに喜び、即時車駕を西に向けた。はじめ張九齢は文学進より、正道を守って穏健であり、林甫はとくにおべっかを使って、そのため大任を得たから、張九齢を妬むごとに秘かに害そうとした。帝は朔方節度使の牛仙客に実封を進めようと思ったが、張九齢は林甫に「封賞は名臣の大功を待つもので、辺将一人が最も上だとしたら、議によるべきだろうか?公と固く争わなければならなくなる」と言ったから、林甫は許諾した。進見するにおよんで、張九齢は論を極めたが、林甫は押し黙り、退いてその言を漏らした。牛仙客は翌日帝に謁見して、泣いて辞退した。帝はますます牛仙客に恩賞を与えたいと思い、張九齢は不可を堅持したから、林甫は人のために「天子が人を用いるのに、何の不可があろうか?」と言ったから、帝は聞いて、林甫が思うままにしないことをよしとした。これによってますます張九齢を疎んじて粗略にし、にわかに裴耀卿とともに政事を罷免され、林甫が専任となり、牛仙客を宰相とした。それより以前、三宰相が就位し、二人は磬折(立ったまま腰を深く折り曲げてする礼)して趨(こばしり)したが、林甫が中央にいても、極めて傲慢で少しも譲ることなく、喜びが津々と眉の間から湧き出た。見る者は秘かに「一羽の鷲を二兎が挟む」と言った。しばらくして詔書が出て、裴耀卿・張九齢を左右丞相から罷免し、林甫は喜び笑って「左右丞相を尚ぶか?」と言ったが、目は怒って送りそこで止めたから、公卿は戦慄した。ここに林甫は昇進して中書令を兼任した。帝はついにその言を用い、三子を殺したから、天下はこれを冤罪だとした。大理卿の徐嶠は妄言して、「大理の獄は殺気が盛んで、鳥雀は敢えて棲むことはありませんでした。今刑部が死刑を執行したのは一年にわずか五十八人で、烏鵲の巣が獄戸に出来たのは、しばらく刑罰を止めていたからです」と言ったから群臣は帝に祝賀して、帝は功を大臣に推して、林甫を晋国公に、牛仙客を豳国公に封じた。

  帝がまさに太子を立てようとするのに及んで、林甫は帝の意を探り、しばしば寿王を称えたが、言葉は秘して伝えず、しかし帝の思いは忠王(後の粛宗)にあり、寿王は立太子することができなかった。太子が既に定まると、林甫は謀が実行されなかったのを恨み、かつ禍いを恐れ、そこで表向きは韋堅とよくした。韋堅は太子妃(韋妃)の兄である。要職に任じてから、まさにその家を罪で覆い、東宮を脅した。しかし太子は妃を絶って自らの潔白を明らかとしたから、林甫の計略は退けられた。杜良娣の父杜有隣と婿の柳勣は互いに相性が良くなく、柳勣は軽薄かつ陰湿で、林甫を助けようと思い、そこで杜有隣に変事ありと上奏し、逮捕されて詔によって獄中で死を賜った。裴敦復李邕らも逮捕されたが、皆林甫がもとより憎んでいる者であったから、連なって殺された。太子もまた杜良娣を出して庶人とした。しばらくもしないうちに、済陽別駕の魏林に暴露させ、河西節度使の王忠嗣が兵を擁して太子を助けようとしていると誣告したが、帝は信じず、しかし王忠嗣は結局左遷されてしまった。林甫はしばしば「太子は謀叛をはかっています」と言ったが、帝は「我が子は内にいて、どうして外の人と接触することができようか。これは妄言である!」と言った。林甫はしばしば太子を危機に陥れたが、志を得ることはなかったから、ある日従容として「古は儲君を立てるのに必ず賢徳を先んじ、大勲があって宗稷に力があったものではない。それは天子の嫡長子のようなものではない」と言った。帝はしばらくして「慶王は往年猟をして、獣に顔をかなり傷つけられた」と言うと、答えて「顔が破られて治らなかったからといって国が破られますか?」と言うと、帝はかなり困惑して、「朕はおもむろにそう思う」と言った。しかし太子は自ら謹孝をもって聞こえ、内外の評判は損なわれず、そのため飛語があっても入れられず、帝は猜疑心をおこすことはなかった。

  林甫はよく上意を探り、当時帝は年老いて、政務を次第に怠るようになり、署名・検断を嫌がり、重ねて大臣に接待するも、林甫を得るにおよんで、任せて疑わなかった。林甫はよく帝の欲を養い、これより帝は深く安楽にいて、寝所に沈溺し、主の徳は衰えた。林甫は奏請するごとに、必ずまず食事時に配下を遣わし、審かに趣旨をうかがい、恩信を固くし、膳主や御婢にいたるまで皆親しく交わり、そのため天子の動静は必ず詳細に得られた。性格は陰密で、誅殺をしのび、喜怒哀楽を見せなかった。表面上は柔和で、初対面の者には親しげにみせたが、既に深く危険な落とし穴に阻まれるようなもので、ついには得られなかった。公卿はその門閥によらずに昇進すれば、必ず刑罰に服することになった。一旦ついた者が離れれば、小者であっても貶められた。一緒に宰相であった張九齢李適之は皆追われた。楊慎矜張瑄盧幼臨柳升らの縁者で連座した者は数百人となり、あわせて誅殺された。王鉷吉温羅希奭を自身の爪牙とし、しばしば大獄をおこし、貴族は長嘆した。李適之の子の李霅はかつて盛んに賓客を招いていたが、林甫を恐れて、そこで終日一人も往く者がいなかった。林甫は堂を所有して偃月のようであったから、「月堂」と号した。大臣を排斥するごとに、そこにいた。人を中傷する理由を思い浮かんだら、喜んで出てくると、その家は打ち砕かれた。子の岫は将作監となり、権勢がかえって苦しみ悩ませ、あやぶみ恐れた。常に後園で散歩するのに従っていたが、輦を曳くに人夫を見て、跪いて泣いて「父上は長らく宰相の座にあり、恨みは天下に満ちています。いったん、災いがあったら人夫になりたいと思ってもなれるでしょうか」と言ったが、林甫は不機嫌となり「こうなった以上、もはやどうすることもできない」と言った。

  当時、帝は詔して天下の士で一芸ある者は宮中に詣でさせ選につかせようとした、林甫は士が詔にこたえてあるいは自分を排斥することを恐れ、そこで建言して、「士はみな草茅の者で、禁忌を知らず、いたずらに狂言で聖聴を乱します。願わくはすべて尚書省の長官に委ねて試問させましょう」と言った。御史中丞して監督させて、一人として中程の者はなかった。林甫はよってお上に在野に才能ある者が留まっていないことを祝賀した。にわかに隴右・河西節度使を兼任した。右相に改められると、節度使を免ぜられ、加えて開府儀同三司に累進し、実封戸三百となった。

  咸寧太守の趙奉璋は「林甫隠悪二十条」を書いて、まさに上言しようとした。林甫は御史に仄めかして趙奉璋を逮捕させ、妖言したと弾劾し、死罪とした。著作郎の韋子春も親しかったから連座して左遷された。帝はかつて大いに楽を並べて勤政楼で演奏したが、それが終わると兵部侍郎の盧絢は馬の轡をもって道を横切って去った。帝はその奥ゆかしさを愛して、称えてこれをよしとした。翌日、林甫は盧絢の子を召して、「お父上はもとより嘱望されていて、お上は交州か広州刺史に任じたいと思っている。もし遠地に行くのに憚りがあるのなら、かつお上に願い出なさい」と言った。盧絢は恐れてこれに従い、そのため華州刺史となり、太子員外詹事を授けられたが、盧絢はこれによって失寵した。時に人材でその誉れが聞こえたる者がいれば、林甫は過ちを認めず、すべてよく天子から遠ざけ、そのため在位中の恩寵でこれに比較できる者はなかった。おしなべて御府で貢納された遠方からの珍味などは、使者が伝送して賜った。帝が甘い物、美味な物を食べれば、必ず賜った。かつて百官に詔してこの年の尚書省に貢納された物は、貢物はことごとく林甫に賜った。帝の輦はその家に到った。従って華清宮に行幸し、御馬・武士百人・女楽二部を給付された。薛王の別所で、勝麗なること京師で一等地を林甫に賜り、その邸第・田園・水磑はみな優れた肥沃の地であった。車馬衣服は奢侈に靡き、最も声伎を好んだ。侍姫は房にあふれ、子は男女五十人である。故事では、宰相はみな元より功あって盛徳で、権威につとめず、出入する騎馬の従者は簡寡で、士庶は引き避けることは甚だしくなかった。林甫は自らが怨む者が徒党を組んでいるのを知っているから、刺客を憂いてひそかに出発し、出入では広く騎馬が走り、先に百歩を駆け、伝令が何衛であるか叫び、金吾はそのために道を清掃し、公卿は辟易として走った。家の中では門や壁を何重にし、石畳を敷き、夜にしばしば移動して、家人でもどこにいるか知るものはいなかった。あるいは帝が不朝の時、群司要官はことごとくその門に走り、台や省は空となった。左相の陳希烈が府にいるとはいえ、ついに入謁する者がいなくなった。

  林甫には学がなく、いやしい発言をしたから、聞く者はひそかに笑った。苑咸・郭慎微とよくし主に書記とした。しかし文法を練り、その用人は迎合しなければ、一に格令によってこれを持し、そのため細々とした綱目は甚だしくは乱れず、人はその威権を憚った。しばらくしてまた安西大都護・朔方節度使を兼任した。にわかに単于副大都護を兼任したが、朔方副使の李献忠が反乱したから、譲って節度使を辞退した。

  はじめ王鉷を厚遇したから、林甫のために力を尽くしたが、王鉷が失脚すると、宰相治状を詔し、林甫は大いに恐れ、表立って王鉷をどうこうすることもせず、獄に下す署名をし、また申して救うこともなかった。そのため楊国忠が代わって御史大夫となり、林甫は楊国忠が愚かであるため軽視し、恐れることはなかったが、また楊貴妃のため厚遇した。ここにおよんで権勢が盛んになり、貴きこと天下を震わしたから、始めて憎しみを交えて仇敵のようになった。しかし楊国忠はまさに剣南節度使を兼任し、南蛮が入寇し、林甫はそのため建言して楊国忠を鎮に遣わして、これを離間しようとした。楊国忠は入朝して辞退したが、帝は「処置がまた終われば、すみやかに帰還せよ。日を数えて卿を待とう」と言ったから、林甫はこれを聞いて悩み苦しんだ。この時すでに病となり、次第に重態となった。たまたま帝は温泉に行幸し、詔して馬輿で従わせ、御医は珍膳を継いで至り、詔旨して見舞いし、中官は起居を守った。病が激しくなると、巫者が病を視て「天子がまみえると少しはよくなるでしょう」と言ったから、帝は見舞いしようとしたが、左右に諫止された。そこで林甫の出廷中に詔して、帝は聖閣を昇り降りし、赤布をあげて招いたが、林甫は起き上がれず、左右の者が代って拝した。にわかに楊国忠が蜀より至り、林甫の寝所に謁して、涙を流して後事を託し、そこで食べずに卒した。諸子が護って京に帰って喪を発し、太尉・揚州大都督を贈位された。

  林甫が宰相の位にいること、およそ十九年、寵を受けて権力を弄び、天子の耳目を蔽い欺き、諫官はみな禄によって資を養ったから、敢えて正言する者はいなかった。補闕の杜璡が再び上書して政事を申し上げたが、斥けられて下邽令に左遷された。よってその他の者を動かし、語って、「明主が上にあり、群臣はまさに従って暇ではないというのに、また何を議論しようというのか?君らはただ仗の前で立つ馬を見たことがないのか。終日声を出さなければ、三品と芻豆(馬の糧)が食べられる。一たび鳴けば、すぐに追い出される。後で鳴かなければよかったと思ったところで、何ができるのか?」と言った。これによって争ってまで諫める者はいなくなった。

  貞観年間(628-649)以来、蕃将で任じられた者に阿史那社尒契苾何力のような者がいて、みな忠誠で力を奮ったが、それでもなお上将とはならず、すべで大臣が統制していた。そのため上は他の権があって、下を制したのである。先天・開元年間(712-741)、大臣で薛訥郭元振張嘉貞王晙張説蕭嵩杜暹李適之らのような者は、節度使から入って天子の宰相となった。林甫は儒臣が方略によって辺境で功績を積んで大任を任じられるのを憎み、その元を塞いで、自分の権力を長く保とうと思い、そこで帝に説いて、「陛下は雄材を用いて国家を富国強兵にしました。しかし夷狄はいまだ滅びておらず、文吏から将を任命すれば、矢石を憚って、自身は先頭に立つことはありません。蕃将を用いるのにこしたことはなく、彼らは生まれてから雄であり、馬上で養い、長く行陣し、天性のものなのです。もし陛下が感じてこれを用いられましたら、必死にならしめ、夷狄は図に足らないものになります」といい、帝はそうだと思い、そこで安思順を林甫に代えて節度使を領せしめ、安禄山高仙芝哥舒翰らを抜擢して大将とした。林甫はその蕃将を利用するのは、宰相となる資格がないからで、そのため安禄山は専ら三道の精兵を得て、場所を十四年も移らず、天子は林甫の策に安心して疑わず、ついに兵を動かして天下を覆し、王室はついに衰えた。

  はじめ、林甫は色白で髭を生やした人が夢に出て来て、まさに自分に迫ろうとしていた。目覚めて物色し、裴寛が夢みた者に似ていると思い、「裴寛は我に代わろうとしている」と言った。よって李適之の党として追放した。その楊国忠が林甫に代わり、容貌は裴寛に似ていたという。楊国忠はもとから林甫に含むものがあり、葬が行われる前に、ひそかに安禄山に仄めかしてその短所を暴露した。安禄山は阿布思の降将を遣わして入朝させ、林甫と阿布思が約して父子とし、異謀があったとした。事は役人に下され、その婿の楊斉宣は恐れて、林甫がお上を呪ったと妄言した。楊国忠はその死体を弾劾し、帝は怒り、詔して林甫が淫祀を祀って呪術を行い、叛虜と結んで宗社を危うくしようとはかったとし、ことごとく官爵を奪い、棺を割って含珠金紫を削り取り、さらに小棺桶で庶人の礼によって葬られた。諸子の司儲郎中の李萼・太常少卿の李嶼および李岫らはことごとく嶺南・黔中に移され、それぞれ奴婢三人を給付され、その家の籍とした。諸婿の張博済・鄭平・杜位・元撝、属子の李復道・李光は、皆官位を貶された。

  張博済もまた心がねじけていて情に薄く自らほしいままにし、戸部郎中となった。戸部には考堂があり、天下の年会計するところであったが、張博済は廃して員外郎中聴事とし、建物は雄健で華やかかつ広く、供給は豊かで多く、千品にも至り、別に都水監の地を取って考堂とし、ほししままに諸州の籍帳の銭を費やしてはかられず、役人はあえて言上しなかった。

  帝は蜀に行幸して、給事中の裴士淹は学問を弁じて厚遇を得た。当時、粛宗が鳳翔にいて、宰相を任命するごとに、たちまち啓聞した。房琯が将軍となると、帝は、「これには賊を破る才覚は持ち合わせていない。もし姚崇がいたとしても賊は滅すにはたりなかったろうが」と言い、宋璟にいたると「彼は剛直さを売って名をとるだけだ」といい、十人あまりを歴評し、みなあたっていた。林甫になると「こいつは賢才の能力に嫉妬して、このころに推挙された者はいなかったんだ」と言うと、裴士淹は、「陛下は本当にこのことを知っていたのでしたら、どうしてこんなのを長い間任命していたのですか?」と言うと、帝は黙って答えなかった。

  至徳年間(756-758)、両京(長安・洛陽)が平定され、大赦されたが、ただ安禄山の支党、および林甫・楊国忠王鉷の子孫は戻されなかった。天宝年間(742-756)、かつて玉を彫って玄元皇帝(老子)および玄宗・粛宗の像を太清宮に安置し、また林甫・陳希烈の像を磨いて左右の序に並べた。代宗の時、ある者が「林甫は陰険で、かつて先帝(粛宗)と関係が悪く、宗廟が幾度も危き目にあいましたが、どうして像を今も留めているのでしょうか?」と言ったから、詔があって太清宮中に埋めた。広明年間(880-881)初頭、盧攜が太清宮使となり、地を発掘してその像を得て、輦車で京兆に送って破壊したといわれる。


  陳希烈は、宋州の人である。博学で、最も黄老に詳しく、文章も巧みであった。開元年間(713-741)、帝は道教経義を著したいと思っていた、褚无量元行沖が卒して以来、希烈と康子元馮朝隠が禁中に進講し、その応答や詔問は、敷衍して精深にして隠秘をつくし、すべて希烈が章句をなした。中書舎人に累進し、開元十九年(731)、集賢院学士となり、工部侍郎、知院事に進んだ。帝が撰述するところがあれば、希烈は必ずこれを助成した。門下侍郎に遷った。

  天宝元年(742)、神(老子)が丹鳳門に降ることがあり、老子のために霊符で教えをひろめた。希烈はそのため上言して、「臣が侍って『南華真経(荘子)』を講演し七篇にいたったとき、陛下は振り向いて『この養生の言は、朕はすでにその術を悟っている。しかし「徳充符」(荘子第五篇)にどうして「非常の応」がないのだろうか?』と仰せでした。臣は稽首して『陛下は内に徳充があり、外に符応しています。必ずめでたいしるしがあってこれに表れるでしょう』と答えました。今霊符は教えを広め、帝の意と合っています。よろしく史官にしめして顕祥をあらわし、述べて無窮に照らすべきです」と述べた。その悪賢くおもねる様はこのようであった。にわかに崇玄館大学士を兼任し、臨潁侯に封じられた。

  李林甫が朝をほしいままにし、かりそめに用いて専制すべき者として、引き入れられて共に政務を行った。希烈は柔易で、かつ帝に目に懸けられることあつかったから、そこで推薦された。天宝五載(746)、累進して同中書門下平章事となり、左丞相兼兵部尚書、許国公に遷り、また秘書省図書使を兼任した。寵は李林甫と等しかった。李林甫は宰相の位にあること久しく、その陰謀は自身を固めるのに十分たるものであったが、また希烈も左右にあった。楊国忠が執政になると、もとよりこれを嫌い、希烈は引いて避け、楊国忠はそこで韋見素を代わりの宰相とし、罷免されて太子太師となった。希烈は職を失い、心が鬱々として頼るところなかった。安禄山が京師を占領すると、遂に達奚珣らとともに賊の宰相となった。後に罪を罪じて斬にあたるも、粛宗は上皇(玄宗)が厚遇していたから、私邸で死を賜った。

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最終更新:2022年12月30日 16:35
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