劉文喜
?-780
唐代の武将。涇原の部将。四鎮、北庭行軍別駕。建中元年(780)に
李懐光が涇原節度使となると、法に厳しかったため、涇原が騒擾となり、その部将であった劉文喜が涇州により、詔を受けず、上疏して
段秀実か、そうでなければ
朱泚を長とするよう訴えた。そこで朱泚を四鎮、北庭軍営、涇原節度使に任じられた。劉文喜はそれでも詔を受けず、自らが節度使になることを欲し、四月に涇州によって叛き、その子を吐蕃の人質として救援を求めた。徳宗は朱泚、李懐光に討伐を命じた。涇州が包囲されると、当時旱であったため群臣は劉文喜を許すよう上書する者が絶えなかったが、徳宗はこれを斥けた。劉文喜は部下の
劉海賓に殺され、涇州は平定された。
史料
『資治通鑑』巻二百二十六 唐紀四十二 徳宗 建中元年二月癸丑条、四月乙未朔条、五月条
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最終更新:2023年05月18日 00:41