李懐光
729-785
唐の武将。朔方節度使。渤海靺鞨の人であり、本姓は茹である。
郭子儀の配下であったが、法に厳格であり、郭子儀の部下に勢力圏を分けたから、そのうちの一部を受け継いだ。建中元年(780)に涇原節度使となるとその厳格さは
劉文喜の乱の一因となった。
朱泚が叛いて長安がその手にあり、徳宗が奉天に逃亡すると、朱泚は奉天を包囲した。李懐光は徳宗を救援して朱泚を破り、落城寸前の奉天を解囲して徳宗を救う大功を立てたが、宰相
盧𣏌の讒言にあい、そのため朝廷との関係は悪化、盧𣏌は左遷させられたが、鉄券を賜ったことによってかえって疑いを抱き、今度は朱泚と盟を結び叛いた。
李晟を避けて河中に逃げ、朝廷は
馬燧に追撃させた。部下に殺害され、徳宗は功を思い起こして子に継承を許そうとしたが、子の
李琟はその弟を皆殺しにして自殺していたから、子はすでに亡んでいた。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2023年01月16日 00:10