段秀実

段秀実 だんしゅうじつ

719-783
中唐の官人・武将。字は成公。本名は段顔。もとは姑臧(甘粛省武威市)の人で、曽祖父の時代から隴州汧陽県(陝西省千陽県)の人となった。明経化に推挙されたが、官吏の道を放棄して武功で巧名を立てることとし、天宝四載(745)、安西節度使の夫蒙霊詧に従い護密(ワハン)を討伐して功績があり、高仙芝に仕えた。天宝十年(751)高仙芝がタラス河畔の戦いで敗れると、敗軍をまとめて撤退し、隴州大推府果毅に遷った。後に封常清に従って大勃津(バルチスタンボロール)を討伐し、綏徳府折沖都尉に改められた。安史の乱が勃発すると、李嗣業の軍に属して転戦。李嗣業が戦死すると荔非元礼白孝徳の麾下に入った。白孝徳の推薦で涇州刺史となり、さらに馬璘の麾下に入って御史中丞に任じられた。吐蕃とたびたび戦闘し、馬璘が卒すると四鎮北庭行軍・涇原鄭潁節度使となった。建中元年(780)宰相楊炎の意見に反対して、涇原鄭潁節度使を罷免され、軍権を奪われて長安に召還されて司農卿となった。建中四年(783)涇原の乱が発生し、叛軍が朱泚を擁立し、朱泚もまた皇帝になろうと発表すると、段秀実は源休が持っていた象牙の笏で朱泚を撃って頭から血を流させたが、二人が取っ組み合いしているところを李忠臣に引き剥がされ、そのまま兵士に殺害された。子に段伯倫段嶷が、孫に段珂段文楚がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻一百五十三 列伝第七十八 段秀実
『旧唐書』巻一百二十八 列伝第七十八 段秀実

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』段秀実
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B5%E7%A7%80%E5%AE%9F

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最終更新:2025年07月25日 23:54
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