源休

源休 げんきゅう

?-784
中唐の官人、叛官。朱泚の宰相(在任783-784)。相州臨漳の人。京兆尹源光輿の子。源溥の兄。監察御史、殿中侍御史、青苗使判官,虞部員外郎、潭州刺史、客郎中、給事中、御史中丞、左庶子と官職を歴任した。その妻は吏部侍郎王翊の娘であったが、些細な事で離別したため婚家より訴えられ、溱州刺史に左遷され、後に岳州に配流された。建中年間(780-783)初頭、楊炎が宰相となると、京兆尹の厳郢の威名が顕れるようになり、厳郢は王翊の甥婿であったから、源休が妻王氏と離別した時、楊炎は厳郢と仲が悪かったから、源休を流人から京兆少尹に大抜擢し,厳郢の過失を調べさせた。しかし源休と厳郢は仲が良かったから楊炎は怒り、御史中丞を兼任させて、迴紇に使させた。唐は迴紇可汗の叔父を殺してしまっており、源休がその遺体を可汗のもとへ届けたところ、「私がお前を殺すのは、血を以て血を洗うようなもので、ますます汚れがひどくなるだけだ」と言って、源休を殺さずに帰らせた。宰相盧𣏌は源休が復命して昇進の契機となるのを恐れて、太原で光禄卿に任じて、使に関する賞は薄かったから恨みを抱いた。涇原の兵乱が発生し、朱泚が主となると、源休はここに至って帝位につくことを説き、その宰相となった。兵食軍資は源休が管理し、内外の策謀はすべて画策し、朝廷の大臣で逃れた者は誘い出されて辱めを受けるか殺された。また宗室の虐殺も扇動し、諸王子孫が多数殺害された。朱泚が敗走すると従って寧州に逃げたが、朱泚が死ぬとさらに鳳翔に逃げ、そこで部下に殺されて、首は送られて、源休の三子は斬刑に処された。『旧唐書』に伝がある。

列伝

『旧唐書』巻一百二十七 列伝第七十七 源休

外部リンク

維基百科,自由的百科全書 源休(中文)
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%BA%90%E4%BC%91

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最終更新:2025年07月30日 08:31
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