楊炎

楊炎

727-781
徳宗時代の宰相。両税法の創始者。鳳翔天興の人。字は公南。諡は粛愍、後に平厲に改められた。曽祖楊大宝は唐初竜門令となり、節に殉じて全節侯を贈られ、楊炎は祖楊哲、父楊播ともに、孝をもって彰され、3代にわたる表彰は空前のこととされた。楊炎は河西節度使呂崇賁に招かれて掌書記になったのを振り出し中央政府に入って司勲員外郎から中書舎人にうつり、常制誥起草の任に当たって常楊と並称され、同郷の関係で、代宗朝の宰相元載に認められて吏部侍郎に起用されたが、777年、元載の失脚によって道州司馬に左遷された。しかし徳宗の即位とともに、彼は宰相崔祐甫の推薦により、召還されて門下侍郎、同中書門下平章事(宰相)に任命され(779)、780(建中元)年、建議して両税法を断行した。これによって唐は財政的に一時の安定をみ、楊炎は大いに人望を得たが、崔祐甫をおしのけて政治をもっぱらにし、元載を徳としてその復仇につとめ、ことに劉晏を憎んでこれを殺した。これより徳宗は楊炎をもっぱら信ぜず、また彼の中央集権回復政策が諸藩の不満を買って、唐朝の立場を危険にしたので、翌年彼を中書侍郎御史大夫とし盧𣏌を門下侍郎同平章事に任じて彼を牽制させた。まもなく楊炎は盧𣏌の讒言によって崖州(海南島)司馬に左遷され、任地にいたる途中で死を賜わった。

参考文献

『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)

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最終更新:2025年01月04日 23:57
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