姚令言 ようれいげん
?-784
中唐の武将・官人・藩鎮・叛将。
朱泚の宰相(在任783-784)。河中の人。兵卒より身を立て、涇原節度使の
馬璘に仕え、戦功により金吾大将軍同正を授けられ、衙前兵馬使、太常卿、御史中丞を兼任した。
孟暤が涇原節度留後となると文官に転身したが、孟暤はしきりに姚令言が将軍の任に堪え得る者と推薦したから、四鎮北庭行営涇原節度使、涇州刺史、兼御史大夫となった。建中四年(783)に
李希烈が汝州を陥落させたため、詔によって
哥舒曜救援の軍として鎮兵五万で救援に赴いたが、長安で軍が京兆尹の食料対応の不満から蜂起し、
徳宗が長安より脱出する事態となった。姚令言は軍を抑えるため
朱泚を迎え入れて擁立し、朱泚によって侍中に任じられ、
源休とともに叛軍の政事を司り、自身を論考して蕭何であると自認し、また源休は姚令言を曹参にあたると述べた。朱泚が敗れると
張廷芝とともに兵一万人を確保して、朱泚に従って吐蕃に逃れる途上、涇州で
田希鑑に誘致されて斬首された。『旧唐書』に伝がある。
列伝
『旧唐書』巻一百二十七 列伝第七十七 姚令言
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最終更新:2025年07月30日 07:45