李希烈 りきれつ
?-786
中唐の武将・藩鎮(第6代淮西節度使)・叛将。大楚皇帝(在位784-786)。遼西(北京市順義区)の人。平盧軍(治所営州)の兵士であったが、安史の乱に
李忠臣にしたがって河南に転戦し、李忠臣が淮西節度使(治所汴州)になると、左廂都虞候となったが、軍政の混乱に乗じて李忠臣を追い、淮西節度使(治所蔡州、汴州には別の節度使がおかれた)に任ぜられた。建中二年(781)山南東道節度使
梁崇義が魏博・成徳・平盧諸鎮と反乱を起こすと、李希烈はこれを攻撃して滅亡させた。しかし翌年いったん平定したかにみえ、反乱が拡大すると、こんどは反乱側に通じ建興王・天下都元帥と自称した。しかもこれを討伐に向かった軍が、
朱泚を擁立して長安で乱を起こしたので、唐朝はやむなく魏博・成徳・平盧と妥協したが、李希烈は盧竜等の藩鎮とともに反抗をつづけ、汴州を占領して帝位につき国を大楚と称した。この間、唐の使者
顔真卿を殺し、諸鎮の崩壊後もひとり抵抗をつづけたが、貞元二年(786)部将
陳仙奇に毒殺された。李希烈は多数(1,000余人とも5,000人ともいわれる)の養子を養って親兵としており、また騾子軍(馬が少なく騾馬を使ったのでこの名がでた)の名で知られる精鋭な牙軍を創設した。後者は李希烈の死後にも伝えられた。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
年号
武成 784-786
后妃
(存否不明)
宰相
張鸞子 784-786頃
李綬 784-786頃
李元平 784-786
鄭賁 784
孫広 784-786頃
列伝
参考文献
『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)
外部リンク
最終更新:2025年07月30日 08:13