王仙芝
?-878
唐末農民反乱の指導者。濮州(山東省郵城県北その孫西)あるいは曹州・冤句の人。唐朝後半期塩、茶の権税政策は、多くの塩、茶の密売商人すなわち私塩、私茶の徒(塩賊、茶賊)を発生せしめたが、王仙芝も塩賊の1人で、各地の仲間と提携し手広く活動していた。中唐朝の彼らに対する取締りや処刑が厳しくなり、懿宗のころから全国的に続発する藩鎮下の軍人、あるいは没落農民である逃戸などの反乱に乗じ、衆3千をもって長垣に乱をおこした(874年末あるいは875年5月)。こののち曹2州を落とし、河南の15州を略奪した。
黄巣はじめ諸道の群盗もこれに応じ、あるいは合流したため、たちまち大勢力となり、唐朝を揺り動かした。唐朝は平盧節度使の
宋威を諸道行営招討草賊使に任じ、討伐招諭につとめさせたが効果がなく、876年王仙芝に左神策軍押衙監察御史をあたえて懐柔しようとしたが、黄巣らの憤懣をおそれて、再び反したという。その末年には、877年招論に応じて降伏、部下の
尚君長らをつかわしたが、かえって殺されたので、転じて江陵を撃って敗れ、878年2月誅に伏したともいい、また同年2月節を求め偽られて尚君長らが殺されたのを怒って、洪州を攻めて敗死したともいわれている(一説に8月)。その残党は尚君長の弟
尚譲にひきいられ黄巣に合流して活動した。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典2』(平凡社,1959年)
外部リンク
最終更新:2023年05月21日 00:53