康君立
847-894
唐末の武将・藩鎮。蔚州興唐の人。代々辺境防備にあたった家柄であった。雲州牙校となり防禦使の段文楚に仕えたが、その横暴から
李克用にその殺害を勧めて自立させた。李克用に従って
黄巣討伐にあたり、長安が奪取されると、検校工部尚書、先鋒軍使を授けられた。
李罕之が河陽を失って李克用に救援を求めると、南面招討使に任じられ、李存孝をその副将とし、二万の軍を率いて河陽を奪取した。汾州刺史を授けられた。大順元年、
安居受が叛くと派遣されて平定し、検校左僕射、昭義節度使に任じられた。景福元年(892)検校司徒に任じられ、食邑千戸を封じられた。同二年(893)
李存孝が邢州で叛くと、李克用の命により討伐し、検校太保に任じられた。乾寧元年(894)李存孝を平定したが、李存孝が死んでから李克用は深く惜しみ、諸将が解決に尽力しなかったことを怒った。
李存信と李存孝は仲が悪く、互いに誹謗中傷しており、康君立は李存信と親しかった。同年九月、康君立が太原に来ると、李克用は諸将と酒宴し、話が李存孝の事に及ぶと涙を流したが、康君立はそこで一言逆らったため、李克用は毒杯を賜い、死んだ。『旧五代史』に伝がある。
列伝
『旧五代史』巻五十五 唐書三十一 列伝第七 康君立
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最終更新:2024年05月17日 11:43