李克用 りこくよう
856-908
唐末の藩鎮・群雄。五代後唐の事実上の建国者。武皇帝。廟号は太祖。後唐初代の皇帝荘宗はその子。突厥沙陀族の出身。もと朱邪氏、祖父朱邪執宜のとき唐に帰朝した。父
朱邪赤心は
龐勛の乱の平定に功があり、宗より李国昌の姓名を賜わり、振武節度使(治所山西省朔県)となった。李克用はその第3子。猛で一眼微小であったから、李児あるいは独眼竜とよばれ、そのひょうかんな騎馬軍はみな黒衣であったから、鴉軍といわれ恐れられた。
黄巣の反乱中、雲州沙陀の将兵に推され父とともに代北に覇をとなえ、朔州を攻めて敗れ韃靼に逃入した。長安に入った黄巣反乱軍を討つため許され関中に入り、883年
尚譲ら15万の大軍を梁田に破り、長安を回復し、功により同平章事・河東節度使となった。
朱全忠らを助けて陳州包囲の黄巣軍を撃ち、決定的打撃をあたえた。朱全忠にはかられ九死に一生をえたが、これより両者の宿怨とけず、唐室を挟んで、激しく抗戦した。995年鳳翔の
李茂貞を急追して、
昭宗を長安に帰還させ
魏国夫人陳氏を賜わり、
王行瑜を滅ぼして晋王に進爵された。天復(901-904)に入り、朱全忠の猛攻に治所晋陽も危うかった。朱全忠が即位すると、再度討伐をうけ、戦中に没した。彼の軍隊の中核義児軍および三矢の寓話は名高い。夫人は貞簡皇后曹氏。正室秦国夫人劉氏。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典6』(平凡社,1960年)
外部リンク
最終更新:2025年01月28日 01:57