楊行密

楊行密

852-905
唐末の武将・藩鎮・群雄。五代十国、呉の始祖(在位892-905)。廬州合肥の人。字は源。諡は武忠王。廟号は太祖。唐末群盗の一員より州兵となり、やがて廬州刺史にすすみ淮南節度使高駢配下の反乱に乗じて楊州に入り、軍賊孫儒を討ち、892年淮南節度使に任ぜられた。其の後、南下する朱全忠の大軍を破り、呉越の銭鏐と蘇州攻防戦を展開して負けたが、ほぼ淮南江東の地を平定し、902年唐朝より東面諸道行営都統にされ、呉王に封ぜられた。その後まもなく没したが、生前中央兵力の強化をはかり地方の部将を弾圧した結果、呉国の混乱をまねくにいたった。『新唐書』『旧五代史』に伝、『新五代史』に世家がある。

列伝・世家

『新唐書』巻一百八十八 列伝第一百一十三 楊行密
『旧五代史』巻一百三十四 僭偽列伝第一 楊行密
『新五代史』巻六十一 呉世家第一 楊行密

参考文献

『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』楊行密
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%A1%8C%E5%AF%86

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最終更新:2024年05月23日 18:12
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