唐書巻一百八十八
列伝第一百十三
楊行密 時溥 朱宣 孫儒
楊行密は、字は化源で、廬州合淝の人である。若くして父を失い、子どもたちを遊ぶと、常に旗幟をつくって陣の形で戦った。二十歳になると、盗賊に加わり、刺史の
鄭綮に捕らえられたが、その容貌が優れていたから、「しかし富貴の身になれるのに、どうして賊になんかなったのか」と言われ、釈放された。郷里の人である
田頵・
陶雅・
劉威と親しかった。僖宗が蜀に逃れると、刺史は楊行密を行在に書簡を送る人とし、一日に三百里を走り、元通りに帰還した。
秦宗権が廬州・寿州の間を寇掠すると、刺史は賊を殺す者を募り、首級を差し出せば褒賞とし、楊行密は功績によって隊長に任命された。都将はこれを嫌い、防衛に出動させた。出動しようとした時、都将が不足しているものを尋ねると、「私はあなたの頭が欲しいのです」と答え、そこで斬り、自ら八営都知兵馬使となった。刺史が逃走すると、淮南節度使の
高駢は上表して廬州刺史とした。そこで田頵を八営都将とし、陶雅を左沖山将とし、郷里の盗賊を討ち定めた。
高駢の将の
呂用之は楊行密が制することができないのを恐れ、
兪公楚を派遣して兵五千で合淝に駐屯し、名目上は
黄巣を討伐するものとしたが、密かに陰謀を企んだ。楊行密は兪公楚を撃ち殺した。
秦宗権が弟を派遣して淮河を渡って舒城を奪取したが、楊行密は破って敗走させた。当時、張敖は寿州におり、
許勍は滁州にいたが、楊行密と何度も戦った。また舒の人の
陳儒が刺史の
高澞を攻め、高澞は救援を求めたが、楊行密はまだ定めることができなかった。賊の
呉回・李本が高澞を追い払い、その城を占領したが、楊行密はこれを捕虜とし、舒州を占領して奪った。光啓二年(886)、張敖は将軍の魏虔を派遣して廬州を攻めたが、大将の
李神福・
田頵が楮城で打ち破った。
畢師鐸・
秦彦が
高駢を攻めると、
呂用之は高駢の命令によって楊行密を行軍司馬に任命して、その兵を率いて救援させた。客の
袁襲が楊行密に向かって「高公は耄碌して、妖しい奴らが権力を握っています。秦彦は謀反によって暴政を除こうとしているので、その乱は熾烈なものとなるでしょう。公は速やかに応じられれば、必ずその地を得られるでしょう」と説き、楊行密はそこで配下の州に説諭して、兵を集めて東に向かい、天長に行くと、揚州は陥落していた。楊行密は城に迫って駐屯すると、呂用之は兵とともに服属した。秦彦は騎兵で城を背にして戦ったが、楊行密は帳中で寝ており、「賊が接近したら私に報告せよ」と命令し、にわかに陣地の一つが陥落すると、別将の李宗礼が入ってきて「兵が接近しています。戦況は不利で、陣地を固守し、おもむろに引き返すべきです」と言ったが、
李濤は怒って「順を以て悪逆を取り除くのだから、数が少ないのがどうだというのか。今どうして帰るというのか。前進して死ぬのを願うだけだ」と言ったから楊行密は喜び、さらに兵を出して戦い、捕虜としたり殺したりすることは踏みにじるかのようであり、秦彦軍は出なかった。高駢が死ぬと、
袁襲は楊行密に軍をあげて縞素(喪服)とするよう勧め、こぞって哭すること三日であった。城に進攻したが、まだ陥落させられなかった。呂用之の将の張審晟は伏兵を西壕に設けて、門番を殺し、外兵に開き、秦彦軍は疲れ、守備兵はすべて潰走し、楊行密は入城して揚州を根拠地とした。一か月もせずに、
孫儒がにわかに到着した。兵は非常に精兵であった。袁襲は楊行密にまみえて「公が楊州に入ったのは、小が大を撃ったようなもので、王室や国家が全うされてはいません。もし外で重囲となり、情勢をみて危うければ、これを避けるにこしたことはありません」と言ったから、楊行密は海陵鎮遏使の
高霸を捕らえて殺し、その軍を併合し、蓄財していたのを廬州に運んだ。ここに
朱全忠は自ら淮南節度使となり、将の
張廷範に命令を伝えさせて、楊行密に副使を授け、行軍司馬の
李璠を知留後とした。楊行密は大いに怒り、張廷範・李璠はあえて淮南に入らなかった。朱全忠は改めて楊行密を知観察留後とするよう奏請した。
この時にあたって、
孫儒は強く、明らかに呉・越を併呑しようという意思があった。楊行密は逃げて海陵を保とうとしたが、
袁襲は廬州に帰還し、兵を整えて後への計画とするよう勧めたから、楊行密はそこで帰還した。既に洪州に逃げるよう謀ったが、袁襲は不可として、「
鐘伝は新興で、兵は付き従い食は多く、簡単には手を下せません。
孫端は和州により、
趙暉は上元に駐屯し、この二人と結んで宣州を版図すれば、我々は余裕綽々で余力があります」と言ったから、楊行密はその献策に従った。孫端・趙暉は采石に行き、楊行密は糝潭より渡り、孫端らは戦うも勝てなかった。袁襲は楊行密に向かって「速かに曷山に走り、堅く守備して待つべきです。宣州の人が戦いを求めたら、我々が弱いように示し、彼らが怠るのを待てば、一挙に捕虜にできます」と勧めた。宣州の将の蘇瑭が兵二万を率いて駐屯して対峙したが、楊行密は戦わず、奇兵を分けて木を伐って道を開いて四方から出撃し、蘇瑭は驚いて敗北し、遂に宣州を包囲した。刺史の
趙鍠は兵糧が尽き、自ら大勢とともに降伏した。
それより以前、楊行密には精鋭の兵士五千があり、黒い衣服、黒い甲冑を着て、「黒雲都」と号した。また盱眙・曲渓の二屯をあわせて組織し、その兵士を「黄頭軍」とし、
李神福を左右黄頭都尉とし、兵士は非常に精鋭であった。曲渓の将の
劉金は、
趙鍠に対して必ず逃げられると献策し、「将軍がもし出られましたら、私の砦で一緒になってください」と欺き、趙鍠は喜び、劉金に多額の金を贈り、娘を妻とすることを許した。翌日、城の上で「劉郎はお前の婿とはならない」と騒ぐと、趙鍠は夜に遁走したが、捕らえられた。趙鍠は、
朱全忠の友人であったから、使者を派遣して趙鍠の身柄を求めた。
袁襲は「斬首して送れば、後の憂いはありません」と言ったから、趙鍠の首を
汴に送った。昭宗は楊行密に詔して検校司徒、宣歙池観察使とした。
当時、韓守威は功績によって池州刺史を拝命したが、楊行密は上表して湖州に移し、兵で護送した。しかし
李師悦は湖州にあって、杭州刺史の
銭鏐と戦うも決着がつかなかった。蘇州・湖州・常州・潤州は戦火が著しかった。楊行密は宣州を得たとはいえ、
蔡儔は
孫儒に敗北して、廬州とともに降った。孫儒は楊行密に進攻し、楊行密は再び揚州に入り、北は
時溥と結んで孫儒を防いだ。
朱全忠は
龐師古を派遣し兵十万を率い、潁州より淮河を渡って楊行密を助けたが、高郵で敗れた。楊行密は恐れ、退却して還宣州に戻り、
安仁義を派遣して
成及を襲撃し、潤州を奪取し、自ら三万を率いて丹陽に駐屯した。安仁義はまた常州を取り、銭鏐の将の
杜稜を殺した。孫儒はまた
劉建鋒を派遣して潤州・常州を奪還した。帝は杭州を防禦使とし、銭鏐に授け、宣州を寧国軍と号し、楊行密に節度使を授けた。
大順二年(891)、
孫儒は溧水に駐屯し、山を取り巻いて城壁を構えた。
楊行密は
李神福を派遣して広徳に駐屯し、計略を授けて、「兵が二倍なら戦わず、その精鋭を避けて、相手を驕らせよ」と言い、そこで一舎(16km)退いた。孫儒の軍は相手を臆病だと思い、守備する者は怠けたから、李神福は夜襲して敗走させた。孫儒の将の康旺は和州を奪い、安景思は滁州を奪った。李神福は攻撃して康旺を降伏させ、安景思を駆逐し、腰山屯を攻撃して破り、孫儒の将の李弘章を捕虜とした。にわかに
田頵・
劉威が孫儒に敗北した。楊行密は銅官を守備しようとしたが、李神福は、「孫儒は根拠地を空にしてやって来ており、速戦が有利としています。城壁に立て籠もるのに老兵を用いるなら、我らは無敵になります。また軽騎兵を出して賊の糧道を断てば、彼らは戦うことができなくなり、退却しても兵糧がないので、滅ぼすのにどうして待つことがありましょうか」と言ったから、ここに楊行密は李神福を宣池都遊弈使とした。孫儒は始めて食が乏しくなった。
常熟県の名賊の
陳可児は
孫儒と楊行密と戦っている隙を伺い、密かに常州に入り、制置使を自称した。楊行密は
陶雅を派遣して潤州を守り、
張訓に揚州に入らせ、楚州刺史を捕らえ、軽騎兵で常州を襲撃して、陳可児を斬った。
孫儒は楊行密を宣州で包囲し、およそ五か月しても包囲を解かなかった。
台濛は魯陽に五堰をつくり、小舟を引っ張って兵糧を運び、そのため楊行密の軍は困窮せず、ついに孫儒を破った。そこで上表して
田頵に宣城を守らせ、長駆して揚州に入った。戦うことおよそ七年、八州を定め、生存者が尽き果てようとしている時、楊行密は休息でき、その部下も遂に安んじた。議して塩・茶を出して民の輸帛に変えようとしたが、幕府の
高勗は「兵火からかろうじて残ったものに、苛斂誅求を加えるべきではありません。また財貨が足りないからといって、何の心配がありましょうか。もし我らがことごとく所有してしまえば、四隣は簡単に何も無いことになってしまうのです。月日がたたなくても、財物はあまりあるものになります」と言い、楊行密はこれを受け入れ、始めて吏を選んで管理部門を励まし慰めた。
蔡儔が廬州とともに叛いて
朱全忠に従い、
孫儒の将の
張顥を入れ、倪章が舒州を根拠地として、蔡儔と連合した。楊行密は
李神福を派遣して蔡儔を攻め、その将を破ったが、蔡儔は立て籠もって出てこなかった。張顥は城壁を乗り越えて降伏し、楊行密は袁積の軍に所属させたが、袁積は張顥を殺すよう願った。楊行密は張顥の勇を愛し、改めて親軍に置いた。しばらくもしないうちに、蔡儔は自殺した。楊行密の先祖の墓はすべて蔡儔に暴かれており、吏は皆殺しにして蔡儔の歴代の墓を暴くよう要請したが、許さなかった。上表して
劉威を廬州刺史とした。
田頵を派遣して歙州を攻めた。歙州刺史の
裴枢に善政があり、民は裴枢を愛し、そのため田頵を拒んで戦い、田頵の兵はしばしば退けられた。裴枢は朝廷が任命した者であり、食が尽きて降伏したいと思い、楊行密に書簡を贈り、京師に戻りたいと願った。楊行密は魯郃を裴枢の代わりとしたが、歙州の人はよしとせず、
陶雅を代わりとするよう願った。陶雅は諸将の中で最も寛大な人物で、礼を以て裴枢を朝廷に帰還させた。この年、
李神福は舒州を陥落させて、倪章は滅び、李神福を舒州刺史とした。
乾寧二年(895)、楊行密は濠州を襲撃した。
李簡は重装歩兵で水を絶って城壁に縋り付いて侵入し、刺史の
張璲を捕らえ、
劉金に守備され、進撃して寿州を奪取した。
汴の将の
劉知俊は石碭に穀物を蓄え、南を襲撃しようとした。
張訓は漣水に駐屯し、兵を派遣して海から揚陸して急襲してその倉庫を得た。劉知俊は戦ったが勝てず、そこで漣水を攻撃したが、大敗し、身を辛うじて免れた。詔して楊行密を淮南節度副大使、知節度事、検校太傅、同中書門下平章事を拝命し、弘農郡王に封じた。
董昌は
銭鏐に攻められ、救援を求めてきた。楊行密は
台濛を派遣して蘇州を攻め、
安仁義・
田頵は杭州を攻め、自らは督戦した。別将の
張崇が銭鏐に捕らえられ、楊行密はその妻を娶りたいと思った。「崇は公に背いてはいません。しばらくお待ちください」という返答があり、にわかに帰還し、これより楊行密は終身大事に頼りとした。翌年五月、蘇州を破り、銭鏐の将の
成及を捕らえ、朱党に守らせた。
朱延寿が蘄州・光州の二州を陥落させ、楊行密は霍丘を南北の攻守の拠点にしようとし、邑豪の
朱景を鎮将とした。朱景は勇敢豪気なこと人を超絶し、盗賊たちはあえて犯すものはいなかった。汴将の
寇彦卿は騎兵三千で襲撃して、
朱全忠の厚意を伝えたが、朱景は許さず、激戦となり、寇彦卿は敗れて去った。
田頵・
魏約・張宣が共に嘉興を包囲したが、
銭鏐の大将
顧全武が救援となり、張宣・魏約は捕虜となり、田頵は駅亭埭に駆逐された。しばらくもしないうちに、泰寧節度使の
朱瑾が部将の
侯瓚を率いて来帰し、太原の将の
李承嗣・
史儼・史建章もまた来奔してきた。楊行密は真心を疑わず、全員を将とした。ここには兵は非常に精鋭で、天下に強者となった。
帝は武昌節度使の
杜洪が
朱全忠と合同するのを憎み、手ずから詔して楊行密に江南諸道行営都統を授け、杜洪を討伐させた。汴将の
朱友恭・
聶金は騎兵一万人を率いて
張崇と泗州で戦い、聶金は敗北した。
瞿章は黄州を守り、朱友恭の到着を聞いて、南は武昌柵に逃げ、楊行密は将の
馬珣を派遣し、楼船の精鋭で瞿章の守備を助けた。朱友恭は樊港に行き、瞿章は険難の地によっていたから、前に出ることができず、朱友恭は崖を鑿って道を開き、強弩で猛射を浴びせ、瞿章の別将を殺し、遂に武昌を包囲した。瞿章は軍を率いて接近戦を挑んだが、勝てず、朱友恭は瞿章を斬りって、その防壁を陥落させた。
朱全忠は
葛従周を率いて一万騎で光州を攻め、
柴再用は士官の
王稔に軽騎兵で威力偵察を行わせたが、汴兵に包囲された。付き従う者が救援を要請したが、柴再用は、「王稔は必ず賊を殺す。君は行ってはならない」と言った。王稔は鞍を解いて平然たるものがあり、日暮れに木陰によって歩いて戦い、殺傷する者が多く、汴兵は包囲を解いた。その時、馬を亡くした場合の法が厳しかったから、王稔は汴軍を追跡し、馬を得て帰還した。葛従周は淮河を渡って寿州を包囲し、
龐師古・
聶金は兵七万で清口に陣を敷いた。朱延寿は葛従周軍を攻撃して破った。楊行密は汴軍の包囲を解こうとし、そこで龐師古を攻撃した。
李承嗣は、「公は軍を潜めて清口に急行し、その軍を破ったなら、葛従周も攻撃せずとも潰えるでしょう」と言い、楊行密は車で西門を出て、北門を経由して去り、精兵一万二千人が雪を噛んで走り、清口に迫ったが、進まず、淮河の上流を堰き止めて龐師古の軍に注ぎ込んだ。
張訓は漣水より到着し、楊行密はわずかに兵千人を率いて前鋒となった。龐師古は組みやすしと見て、軍中で囲碁をしており、顧みなかった。
朱瑾・
侯瓚は百騎で汴軍の旗を持って、直ちに龐師古の陣に入り、鉾を振り回して駆け回った。張訓もまた岸に登り、その柵を乗り越えた。汴軍は大混乱となり、龐師古は斬られ、兵士で死ぬ者は十人中八人に及んだ。朱全忠はこれを聞いて、葛従周とともに皆遁走したが、寿陽まで追撃し、大いに破った。淠水に到着し、渡河しようとすると、朱瑾に攻撃され、溺死する者は一万人あまりであった。朱瑾は移って安豊に駐屯し、汴将の牛全節と激戦になり、後軍が到着して渡河することができた。たまたま大雪となり、兵士は多く凍死した。潁州刺史の
王敬蕘は薪を焚いて道に添え、汴軍で死を免れた者は数千人であった。しばらくもしないうちに、再び寿州を包囲したが、七日して敗走した。
馬珣は散兵三百を収容し、黄州の間道より分寧に走り、山谷を越え、撫州を襲撃した。
銭鏐の将の
危全諷が兵を四壁に並べ、合計で一万人であった。馬珣は諸将に向かって、「諸君のために中壁を攻撃する。その谷で食べてから帰ろう」と言い、そこで夜に攻撃し、危全諷は逃走した。翌日、馬珣は宴会をして、旗指し物を広げ、鼓をうって山を巡って下りたが、危全諷の軍営は壊滅していた。帰還すると、楊行密は「この小僧め、その城を占領しなかったのか」と罵った。
光化元年(898)、
秦裴が
銭鏐の昆山鎮を奪うと、
顧全武が包囲した。楊行密の諸将はしばしば敗れ、顧全武は遂に蘇州を包囲し、
台濛は堅く守ったが、銭鏐は自ら水軍でやって来た。台濛は食が尽き、楊行密は
李簡・蒋勛を派遣して迎撃し、顧全武の兵を破ったから、台濛は帰還することができた。後詰の軍は壊滅し、秦裴への援軍は絶たれ、顧全武は投降を勧めた。水を決壊させて城に注ぎ、城は壊れ、秦裴はそこで降伏した。銭鏐は喜び、千人分の食事を備えて待っていた。到着すると、兵士は百人にも満たなかった。銭鏐は、「軍が少ないのに、どうして長い間防衛したのか」と尋ねると、秦裴は、「そもそも兵糧が尽きたから降伏しただけであって、降伏自体はもとより私の本意ではありません」と答えた。それより以前、
成及が捕らえられると、楊行密はその部屋を見て、ただ図書と薬剤があるだけで、行軍司馬に任命すると固辞し、刀を引いて自ら刺そうとしたから、楊行密は沙汰止みとし、礼を厚くして帰らせた。銭鏐もまた
魏約らを遣わして帰還させた。
朱全忠が蔡州を攻め、奉国節度使の
崔洪が援軍を求めた。翌年、
朱瑾を派遣して兵一万人を率いて徐州を攻撃し、呂梁に陣を構えたが、崔洪は遂に来奔してきた。たまたま長雨となり、朱瑾は引き返した。楊行密は徐州を攻め、汴将の李礼は宿州に立て籠もって援軍とし、朱全忠は自ら軍を率いて輝州に行った。楊行密は戦うも勝てず、包囲を解いた。青州の将の
陳漢賓が兵を擁して楊行密を見送りし、
王綰・
張訓・
周本が兵を率いて出迎え、陳漢賓は心の中で後悔していたが、王綰・張訓が入って陳漢賓を見ると、麾下に約して「我らを迎えて日中を過ぎず、もし到着しなかったら、城を攻めよ」と言ったから、陳漢賓は甲冑を脱いで命令を聞いた。光州が叛くと、楊行密は自ら攻め、汴将の
朱友裕が救援に来たから、包囲を解いて撤退した。朱全忠が
馬殷・
成汭・
雷満を諭して兵を合わせて楊行密を攻めようとしたが、成汭・雷満は決断を下さず、成汭は馬殷が朱全忠に仕えているのを憎んで、その境を侵し、雷満とは誼を結んだ。楊行密は黄州・鄂州の間に立て籠もり、
杜洪は鴆毒を酒や井戸に投入し、城を棄てて去った。楊行密は知ったものの、入らなかった。朱全忠はまた使者を派遣して馬殷・成汭・雷満に督促して兵を連合して囲みを解くよう催促したが、楊行密は帰還した。詔して検校太尉、兼侍中を加えた。天復元年(901)、
銭鏐が盗賊に殺害されたとの伝聞があり、
李神福は急行して臨安を攻め、
顧全武は八壁を連ねて対峙し、李神福は青山に伏兵し、偽って退却するかのように間諜を走らせて告げさせたから、顧全武は全軍で追跡した。李神福は引き返して戦い、伏兵とともに挟撃したから、斬首五千級を得て、顧全武を捕虜とした。翌日、遂に臨安を包囲し、銭鏐の将軍の秦昶は步兵三千人とともに降伏した。李神福はそこで軍中に命じて銭鏐の先祖の墓を護衛させ、木の伐採を禁じたから、銭鏐は使者を派遣して厚く感謝した。李神福は銭鏐が死んでいないから、臨安をまだ降すことができないとして、兵を納め、軍をねぎらって帰還した。
翌年、大将の
劉存は兵二万を、戦艦七百を率いて湖南を攻撃した。
馬殷は兵を長磧洲に伏せ、楼船を上流に停泊させ、大風に乗じて、強弩で射たから、劉存の軍は炎上した。楊行密は
顧全武を
銭鏐に返し、銭鏐もまた
秦裴を釈放して報いた。
帝は鳳翔にあって、左金吾大将軍
李儼を江淮宣諭使とし、楊行密に東面諸道行営都統、検校太師、守中書令を授け、呉王に封じ、制を承って封拝させ、また救難を告げた。当時、すでに
朱全忠の封爵を奪い、西川・河東・忠義・幽州・保大・横海・義武・大同の八道に攻撃させた。
朱瑾に詔して平盧節度使とし、海州より青州・斉州を取らせ、
馮弘鐸を感化節度使として、漣水に出撃させ、徐州・宿州を取らせ、
朱延寿に蔡州を包囲させ、
田頵に
銭鏐を防がせ、楊行密に
杜洪・
馬殷を討伐させ、朱全忠の勢力を分断させようとした。
楊行密は
李神福を鄂岳招討使とし、
劉存を副とし、泠業に
馬殷を攻撃させた。
杜洪は戦うもしばしば敗れ、城を取り巻いて、
朱全忠に救援を求めた。朱全忠は
韓勍に步兵一万人を率いさせて灄口に駐屯させ、荊南節度使の
成汭もまた全軍で杜洪を救援した。李神福は反撃してこれを破り、成汭は溺死し、韓勍は軍を率いて敗走した。泠業は平江に駐屯し、三方を囲む壁をつくった。馬殷の将の
許徳勛は精兵を「定南刀」と号し、夜に泠業を襲撃し、三壁を攻撃してすべて破り、泠業を捕虜とし、上高・唐年を掠奪して去った。当時、杜洪は非常に弱体化し、捕虜となった。たまたま
田頵・
安仁義が楊行密と断絶し、楊行密は李神福を召還して、劉存もまた計略を行う担当となったから、杜洪は再興した。田頵が敗れると、改めて
台濛を宣州観察使とし、再び李神福・劉存を派遣して鄂州を攻めた。順義軍使の汪武は田頵と連合した。歙州刺史の
陶雅は
鐘伝を攻めることとなり、軍が通過した際に汪武は迎え謁したが、陶雅は汪武を軍中で捕縛した。
無錫は浙江の要衝にあたり、楊行密は勇将の
張可悰に守らせた。
銭鏐は精兵三千で城を夜襲し、張可悰は百騎で迎撃して敗走させた。吏は皆祝賀したが、「まだだな。これから諸軍は一戦しなければならん」と言い、そこで火を覆い隠して旗を納めて待った。偵察の者が銭鏐の兵が再度やって来たと報告したから、張可悰は大いに破った。
台濛が卒すると、楊行密は子の
楊渥を宣州観察使とした。天祐二年(905)、
王茂章・
李徳誠は潤州を陥落させ、
安仁義を殺した。
王茂章を潤州団練使とした。王彦章らが水軍を率いて再び
馬殷を討伐すべく、岳州を攻撃した。
許徳勛・詹佶は舟千二百艘で蛤子湖に入って山の南を放棄し、木で龍をつくって舟を鎖で繋ぎ、夜に三百艘で楊林岸を遮断した。王彦章は荊江に入り、江陵に逃げようとした。詹佶は追跡し、許徳勛は梅花海鶻という船で速やかに進み、木龍を断ち、舟は江を覆いつくし、車弩が乱射し、王彦章は捕虜となり、溺死一万人であった。馬殷は王彦章を釈放して帰還させたが、許徳勛は「我らのために呉王に伝えよ。我らのような者は数人いて、湖州・湘州を得られると望んではならないとな」と言った。
楊行密は寛大で、よく部下を待遇したから、兵士に死力を尽くさせることができた。宴会のたびに人に剣を持たせて近侍させていた。近侍していた陳人の張洪が剣で楊行密を攻撃したが当たらず、近将の李龍が捕らえて斬ったにもかかわらず、他日も他人に剣を持たせて近侍させることはもとの通りであった。楊行密は朝早くに出かけると、盗人によって馬の鞍を破壊されたが、そのことについて触れなかった。そのため人々は恩を抱いた。始め、
孫儒の乱のとき、府庫は枯渇してしまい、よく自らの冗費を節約したから、三年もせずして軍は富強となった。かつて楚州を通過すると、
台濛が宴会の準備をして待っていた。楊行密は一旦去ってから、衣を寝床から送って、すべて経費を補完させた。台濛が返却してくると、楊行密は、「私は微細な身からおこし、あえて根本を忘れることはない。君は私を笑うのか」と言ったから、台濛は大いに恥じた。城に行くと、
王茂章が邸宅を造影しており、「天下は未だ定まっていないのに、王茂章は寝殿にいてきらびやかにしている。どうして私的なことのために身を忘れることをよしとしようか」と言ったから、王茂章はにわかに邸宅を破壊した。
帝は鳳翔にいて動きが取れず、再び使者を派遣して出兵と督促し、楊行密を
朱全忠に対抗させようとした。しかし、楊行密は兵を宿州まで到ったところで、偽って兵糧が尽きたと言い、帰還した。朱全忠は帝を脅して東遷し、楊行密は恥と怒りのあまり病となった。朱全忠はまた天子が楊行密を頼って重んじていることを知っていたから、そこで帝を殺して人望を絶った。楊行密はこれを聞きて、喪を発し、政務を見ないこと三日、ここに病は重くなり、将軍や吏員を召集して家の事を頼んだ。後嗣を誰にすべきか補佐役に尋ねた。
周隠は「宣州司徒(
楊渥)は簡単に讒言を信じ、ただ際限なく酒を好んでおり、後嗣とすべきではありません。賢者を選ぶのにこしたことがありません」と答え、その時
劉威が宿将であって威名があったから、周隠の思いは劉威にあったものの、楊行密は答えなかった。そこで
王茂章を楊渥の代任とし、楊渥を速やかに召還させた。楊行密は自ら厳求を呼び寄せて「私は周隠に我が子を呼ばせたが来ない。どうしてか」と言い、周隠のもとに行かせてみると、召還の命令書はその机の上にあった。それより以前、楊渥は宣州を守り、押牙の
徐温・
王令謀が楊渥に誓って、「王が病となっているのに、君を外部に出しているのは、これはほとんど奸人の計略なのです。他日に召があっても、我ら二人でなければ応じてはなりません」と言い、ここに及んで、二人は符によって楊渥を召還した。楊渥が到着すると、楊行密は承制して検校太尉、同中書門下平章事、淮南節度使留後を授けた。楊行密は楊渥に忠告して、「左衙都将の
張顥・
王茂章・
李遇は全員乱に乗じて利をとるような者ばかりだ。お前がこいつらを任命してはならん」と言い、卒した。年五十四歳。遺令して穀葛を衣とし、桐や瓦を棺とした。夜に山谷に葬ったが、人はその場所を知らなかった。諸将は諡して武忠とした。
張顥は都統の印を宣諭使の
李儼に与えて、節度使の政務を行わせるよう建議した。諸将は張顥を恐れて、あえて答える者はおらず、
楊渥は涙を流した。騎軍都尉の
李濤は、「都統の印は、先帝が王父子に賜ったものである。どうして人に授けられようか」と言い、諸将は承諾した。張顥は袂を振るって勢いよく去り、そこで共に李儼に要請し、承制して楊渥に兼侍中、淮南節度副大使、東面諸道行営都統を授け、弘農郡王に封じた。
楊渥は騎射を好んだ。初め許玄膺と刎頸の交りがあり、位を嗣ぐと、政務はすべて許玄膺に決済させ、諸将はあえて逆らう者はいなかった。楊渥は
王茂章に親兵を求めたが得られず、宣州を去って王茂章に交替するにあたって、帷幕を解体してから去ったから、王茂章は痛罵して与えなかった。翌年、兵五千を派遣して襲撃し、王茂章は杭州に亡命した。
秦裴が
鐘匡時を捕虜とすると、楊渥は秦裴に江西制置使を授けた。朱思勍・範師従・陳鐇が兵で洪州を防衛することになったが、楊渥は
張顥に制されており、三人は、楊渥の腹心であった。張顥は脅して謀反を企んでいると上言して、
陳祐を派遣して急行させ、短剣を携え、人目につかないよう秦裴の帳中に入ったから、秦裴は大いに驚いたものの、命令を受け入れ、三将を招き入れ、皆が色めき立ったから酒を勧めたが、陳祐はその罪を数えあげ、全員を斬った。楊渥は
周隠を召して、「君はかつて孤(わたし)を後嗣とすべきではないといったが、どうしてなのか」と尋ね、周隠は答えられなかったから殺された。
賛にいわく、
楊行密は卑賤の身分から身をおこして、志を得ると、寛容でよく軍を制御し、身を治めて節約かつ倹約し、大きな過失はなく、賢人というべきである。しかしながら淮・楚を根拠とし、兵士は荒々しいのに強兵ではなかった。楊行密に覇王たる才はなく、兵を引っ提げて四方に覇を唱えることができず、これによって王室をおこし、
朱温が天子を東に拐っていくのを見るだけで、謀はきわまり思いは阻まれ、寝殿で憤死することになったのは、非常に嘆息すべきことである。
時溥は、徐州彭城の人である。徐州の牙将となる。
黄巣が京師を乱すと、節度使の
支詳は時溥を陳璠とともに派遣して兵五千を率いさせて西討させた。河陰に行くと、軍乱が置き、居人を脅かした。時溥はその軍を撫育し、屯地の境まで引き返し、あえて帰ることを疑わなかった。支詳は牛や酒で兵士を労い、その罪をすべて許すことを約束し、軍はそこで入り、共に時溥を推して留後とし、支詳を客館に追い払った。時溥は厚く旅装を整え、陳璠を護衛に派遣して京師に帰したが、夜に七里亭に泊まったところ、陳璠は勝手に支詳を殺し、その家を皆殺しにした。時溥は怒り、陳璠を宿州刺史に任命しようとしていたが、にわかに殺した。別に将軍に精兵三千を率いさせて関に入らせ、僖宗はこれによって武寧節度使に任じた。
黄巣が東に敗走すると、陳州を包囲し、溵水に軍営を築いた。
秦宗権が淮西を占領すると、互いに結びつきあった。時溥は賊を分断し、そこで全軍で討伐し、軍の勢いは非常に盛んで、連戦連勝で、東面兵馬都統を授けられた。遂に許州・兗州・鄆州の兵を合わせ、
尚譲を太康に追い払い、斬首すること数万級で、尚譲は部下一万人とともに降伏した。時溥は将の
李師悦らを派遣して黄巣を追尾して莱蕪に到り、これを大いに破った。諸将は黄巣の首を得ようと争い、
林言が斬って、時溥が持ち帰り、天子に献上したため、賊を打ち破ったことについて時溥は功第一となった。検校司徒、同中書門下平章事を加えられ、検校太尉、兼中書令、鉅鹿郡王に昇進した。
秦宗権は兵を阻むと、時溥は蔡州行営兵馬都統を拝命した。
賊が平定されると、
朱全忠と功績を争い、憎み嫌う心が日に日に大きくなった。
孫儒は
楊行密と揚州で争っており、朱全忠に詔して淮南節度使に任じてその乱を平定させようとした。時溥は自ら先んじて決起し、功名は朝廷にあらわれ、位は都統にいたったが、自身は得られなかったのに朱全忠が得られたから、非常に恨み嘆いた。朱全忠は司馬の
李璠・郭言らを東に向かわせ、兵は宿州を通過し、時溥に書簡を送って軍の通行を要請した。時溥は断って不可とし、休息している隙に兵で襲撃した。郭言は非常に奮戦し、囲みを解いて撤退した。朱全忠は怨み、これより毎年、徐州・泗州を掠奪し、軍は甲冑を緩めなかった。朱全忠は自ら軍を率いてその近郊に及んだが、計画通りにはならず引き揚げた。時溥は窮し、援軍を
李克用に要請した。李克用は時溥のために碭山を攻め、
朱友裕が救援し、それぞれその大将を失った。朱友裕は宿州に進攻したが、陥落させることができなかった。その時大順元年(890)のことであった。
翌年、
丁会は堤防の閘門を汴水に築き、宿州の城郭に注ぎ込み、三月、陥落させ、
劉瓚に守らせた。時溥の将の
劉知俊が兵二千を率いて
朱全忠に降伏したから、戦況はますます不利となった。民は田作ができず、また大水で連年災害となり、死者は十人中七人以上にのぼった。そこで朱全忠に講和を求め、朱全忠は地を移るのなら戦争を辞めると約束した。昭宗は宰相の
劉崇望に代わらせ、時溥に太子太師を授けた。時溥は徐州を去ると見殺しにしてしまうのではないかと心配し、疑惑のため命を受けず、軍中に諭して固く留まり、詔があって許された。泗州刺史の
張諌は時溥がすでに交替してしまったと聞いており、そこで上書して朱全忠に隷属することを願い、子を人質に納めてしまっていた。時溥はすでにまた留まることになったから、張諌は大いに恐れ、朱全忠は上表して鄭州刺史に遷した。張諌は二人の恨みが自分に集まっているのではないかと恐れ、そこで
楊行密のもとに出奔した。楊行密は張諌を楚州刺史とし、あわせて泗州の民を楚州に遷し、兵を泗州に駐屯させた。
朱友裕は軍を率いて時溥を攻め、城を守って出撃しなかった。ある者が
朱全忠に向かって、「軍が吉日でないのに行ったから、軍に功がないのです」と言ったから、朱全忠は参謀の徐璠を派遣して軍に到着して譴責の書状を送ったが、朱友裕は「時溥は苦しんでおり、破れそうなのに、妖しい言辞に従うと、兵士の士気が落ちる」と答えてその書状を焼き捨て、糧食の運送を督促し、猛攻し、時溥の将の徐汶は投降した。時溥は救援を
朱瑾に求めた。朱全忠は自ら兵を率いて曹州に駐屯し、退却しようとして、精鋭の騎兵数千を
霍存に授け、「事は急である。二倍の速度で走りなさい」と言った。朱瑾の兵二万は時溥と合流し、朱友裕を攻撃すると、霍存は兵を率いて急襲し、朱瑾・時溥は陣地に戻った。翌日、また戦いとなり、霍存は敗北して戦死した。進撃して朱友裕は窮地に陥り、朱友裕は陣地を堅く守備して出ず、朱瑾は兵糧が尽きて、兗州に帰還した。朱全忠は
龐師古を朱友裕に代わらせ、時溥は兵を分けて石仏山を固守させたが、龐師古は攻撃して石仏山を陥落させた。これより陣地を保全して戦わなかった。
王重師・
牛存節らが堀を梯で乗り越えて侵入し、時溥は金玉を移して妻子とともに燕子楼に登り、自ら焼死した。実に景福二年(893)のことであった。朱全忠はついにその地にあって、私的に守備を置いた。
朱宣は、宋州下邑の人である。父は狡猾で法を守らない人物として郷里の中で知られ、塩の密売人をして死刑となった。朱宣は亡命して青州を去り、
王敬武の牙軍となった。
黄巣の乱で、王敬武が将軍の
曹存実を派遣して兵を率いて西は関中に入ると、朱宣を軍候とし、鄆州に行った。この時、節度使の
薛崇が
王仙芝を防衛して戦死すると、その将の
崔君裕が州の政務を摂領した。曹存実は兵が少ないことを推測して、襲撃して崔君裕を殺し、その地を根拠地とし、遂に留後を称した。朱宣に軍功が多かったから、濮州刺史に任命し、全兵力を留めて指揮させた。
中和年間(881-885)初頭、魏博節度使の
韓簡が東は曹州・鄆州を狙い、兵を率いて渡河した。
曹存実は迎撃したが、陣中で戦死し、朱宣は敗残兵を収容して城に立て籠もった。韓簡は包囲すること六か月、陥落できず、兵を率いて去った。僖宗はその守備を褒め、朱宣に天平節度使を拝命し、累進して同中書門下平章事を加えた。朱宣は軍三万を有し、弟の
朱瑾の勇は三軍に冠たるものがあったが、密かに天下を争おうという心があった。朱瑾は残忍で殺人を好み、光啓年間(885-888)、兗州節度使の
斉克譲に求婚し、親族としての出迎えに乗じて、兵を載せて密かに出発し、斉克譲を追放し、府を占領して自ら留後を称した。天子はそこで節度使の帥節を授けたから、兄弟で山東に雄を張った。当時、
秦宗権が全軍を率いて
朱全忠を攻撃し、
秦賢に三十六の屯営を列べさせ、自ら軍を率いて督戦した。朱全忠は大いに恐れ、朱宣に救援を求めた。朱宣は朱瑾とともに自ら軍を率いて進撃して秦宗権を攻め、秦宗権は敗走した。
朱全忠はあつく朱宣と好を通じ、兄のように仕え、心がかよって緊密であったが、内心ではその雄々しさを嫌っており、また根拠地がすべて強兵の地であったから、恨みをつのらせて謀をしようとした。そこで朱宣に汴人の亡命を広くすすめたことを、書を送って譴責した。新たに朱全忠に恩があるから、そのため返答して怒り恨んだ。朱全忠はこれによって関係が悪化したことを表向きにし、
朱珍に先ず瑾州を攻撃させ、曹州を奪取し、乗氏県に立て籠もった。朱宣は曹州を救援に行ったが勝てず、范州に逃げ帰った。朱珍は濮州を包囲し、朱宣は弟の朱罕に濮州を救援に向かわせた。朱全忠は自ら軍を率いて朱罕を攻撃して斬り、濮州は陥落したが、
朱裕は鄆州に逃げ帰り、朱珍に鄆州に迫って戦いを挑んだが、朱宣は出撃しなかった。朱裕は書簡で降伏を偽り、朱珍を導き入れようとし、朱珍はこれを信じ、夜に兵数千で傅城(出丸)に行った。朱裕が門を開くと、軍は入り、跳ね橋を上げ、死者は数千人で、石を投げてまだ入ってこない者を攻撃し、裨将百人あまりを殺した。再び取曹州を奪取し、
郭詞を刺史としたが、大将の
郭銖は郭詞を斬って朱全忠のもとに逃げた。
朱瑾は全軍で謀って汴を襲撃し、朱全忠はそのため自ら朱瑾の攻撃から防衛した。朱瑾は兵で単父県を掠奪し、朱全忠の将軍
丁会とともに転々と戦ったが、勝てず、去った。
景福年間(892-893)初頭、再び朱宣を討伐し、従子(長子の誤り)の
朱友裕を先鋒とし、朱全忠自らは後続となった。衛南に行き、朱宣は軽兵で夜に朱友裕軍を包囲して、逃走させてその軍営を根拠地とした。朱全忠はそのことを知らず、兵糧を運び入れていたが、発覚して瓠河に退却したが、朱友裕とはお互いの消息がわからず、濮州とは十五里ばかり離れていた。翌日、朱友裕が到着した。朱宣は濮州にとどまった。朱全忠は朱友裕に命じて壮騎を駆けさせて鄆州の敵情を調査させ、自らは軍を率いて北に向かった。たまたま朱宣も引き返してきており、兵を放って戦ったから、朱全忠は南に逃走し、深い谷に去ったが、しばらくの間逃れられず、大将が多く死んだ。そこで持久して極を狙って朱宣を討ち取ろうを謀り、一・二年はその周辺を掠奪し、食を奪い、工人や織人を捕虜としたから、わずかに残存するだけになった。朱宣は
賀瓌に濮州を守備させたから、朱友裕が攻撃すると、城を任せて逃走した。朱友裕は徐州に進撃し、当時、
時溥が朱宣に救援を求めたが、戦ったが勝てずに撤退したから、時溥はついに滅んだ。朱全忠はそこで
龐師古を派遣して斉州を攻撃し、朱宣・朱瑾は兵で防衛したから、長い間降伏しなかった。乾寧元年(894)、朱全忠は自ら出撃し、清河に迫って砦を築いた。朱宣・朱瑾はその軍を三分して出撃し、朱全忠は東阿で迎撃すると、南風が急に吹き、汴軍はその風下にあって、非常に恐れた。にわかに風向きがかわったから、朱全忠は火を放ってその付近を焚くことができ、煙は空に充満し、朱宣らは大敗した。この夏、朱全忠は曹州の南に立て籠もり、朱宣は肉薄して戦い、その将軍三人を捕虜とした。朱全忠は撤退した。
翌年、
朱全忠は
朱友恭に兗州を攻撃させ、
朱瑾は堅く防衛し、そこで塹壕を築いて守った。朱宣は朱瑾に食料を送り届けたが、朱友恭はその食料を奪った。朱全忠は自ら軍を率いて単父に向かった。当時、朱宣は救援を
李克用に求め、朱友恭は退却して曹南に立て籠もった。数ヶ月して、朱全忠は自ら朱宣討伐に向かい、その麦を刈り取り、李克用の将の
李承嗣らを破って、帰還した。朱宣はこれを追跡して、大いに曹州をかすめた。その秋、朱全忠は再び鄆州に侵攻し、梁山に立て籠もった。朱宣・李克用は戦いを挑み、朱全忠は伏兵を設けて破り、斬首数千級で、南に引き返した。李克用は朱全忠の後方を追跡し、柏和に至ると、大寒のため、朱全忠の軍は多く死んだ。一か月もしないうちに、再び兗州を包囲し、龔丘県を掠奪した。
賀瓌は奇兵で朱全忠の輜重を攻撃したが、及ばず、鉅野の東で戦い、賀瓌は大敗して捕虜となり、軍に生存者はいなかった。軍は堤防を道としたが、風がにわかに起こったから、朱全忠は「どうして人を殺したのに残った者があろうか」と言い、そこで軍中を捜索し、また数千人を斬ると、風が止んだ。捕らえた賀瓌を城下に示した。
朱瑾の兄の
朱瓊は斉州を守っていたが、
朱全忠の勢いを見て屈し、斉州をあげて朱全忠に帰順し、同姓のよしみを結んだ。朱全忠は許し、軽騎で軍に到着し、朱全忠は労って礼を加え、そこで朱瑾を招かせた。朱瑾は精鋭騎兵を連れて池を隔てて笑い語ることは平生のようであったから、そこで将の
胡規に偽って書簡を送らせ、朱瓊に自ら符節をとってくれるよう頼んだ。朱全忠は心配もせず、朱瑾は壮士を橋の下に隠し、朱瓊は単騎でやって来ると、言葉を交わそうとして、壮士が突然立ち上がり、朱瓊を抱えて入り、その首を斬って城下に棄てたから、汴軍は大いに震撼した。朱全忠は怒り、数日して去った。
乾寧三年(896)、
李克用はその将の
李瑭に兵で莘州に駐屯させて朱宣への援軍としたが、
羅弘信に敗れた。
朱全忠は大いに喜び、たびたび朱宣を苦しませるべく、
龐師古を派遣して朱宣を討伐させ、朱宣は迎撃したが、馬頬河で敗れた。龐師古は鄆州の西門に迫ったが、朱宣は打って出なかった。
朱全忠が朱宣を攻撃すること、およそ十度軍をおこし、四度敗北した。朱宣に将才がある者はいなくなってしまい、ますます内部の対立がおこり、たびたび朱全忠と戦うことができなくなり、防衛するだけになり、堀を浚渫して溝を深くし、接近させないようにした。翌年、
葛従周が密かに舟を堀に造り、兵士に越えさせて城壁を登らせた。朱宣は出奔したが、民に捕縛され、追手が到着すると、捕らえて献じ、朱全忠は朱宣を斬って、その妻を後宮に納れた。
龐師古に兗州を攻略させた。二か月して食料が尽き、
朱瑾は自ら出て兵糧・秣を獲得すべく、転戦して豊州・沛州の間を掠奪したが、子の朱用貞および大将の
康懐英らが城をあげて降伏した。朱瑾は麾下を率いて沂州に逃げたが、沂州刺史の尹懐賓は受け入れず、そこで海州に奔り、海州刺史の朱用芝はその軍を以て朱瑾とともに
楊行密のもとに奔り、楊行密は高郵に出迎え、自らの玉帯を解いて賜い、上表して徐州節度使とし、兵を授けた。龐師古・葛従周は兵七万人で楊行密を討伐しようとしたが、朱瑾はこれを清口で破り、龐師古を撃ち殺して、葛従周は撤退し、軍が淠水に到着して渡ろうとすると、朱瑾が追撃してきて、大半が殺傷溺死した。朱瑾は楊行密に仕えて最も力を尽くした。
孫儒は、河南河南県の人である。卞州の脇の里中を軍が通過したのを見て、忠武軍に属して将校となった。
劉建鋒と親しかった。黄巣が反乱すると、部下の兵士とともに
秦宗権に属し、都将となった。光啓年間(885-888)初頭、秦宗権は孫儒を派遣して東都(洛陽)を攻撃し、留守の
李罕之は出奔した。孫儒は宮殿を焼き払い、居民を皆殺しにした。河陽節度使の
諸葛爽は孫儒と洛水で戦ったが、諸葛爽は敗北し、孫儒はまた東は鄭州を包囲した。
朱全忠は中牟に駐屯して救援したから、あえて前進しなかった。孫儒の軍は夜に城壁に登り、刺史の
李璠は逃走し、儒は進撃して河橋を攻撃して、遂に河陽を奪取し、留後の
諸葛仲方は出奔した。朱全忠は河陰に立て籠もり、孫儒は汴州周辺を掠奪したから、朱全忠の兵は退いて、胙城の東南に駐屯し、偽旗を並べ、鼓を打ち鳴らして偽装したから、孫儒は撤退した。
当時、
朱全忠と
秦宗権が戦い、秦宗権は敗走した。孫儒はこれを聞いて、大いに人を殺し、死体を河に流し、村々を焼き払って去った。秦宗権はまた孫儒を派遣して淮南を掠奪させ、
高駢の乱に乗じて、孫儒は濠州に留まった。その時、
楊行密は揚州を得たから、秦宗権は弟の
秦宗衡を派遣して淮南を争奪しようとし、孫儒を副官とし、
劉建鋒を前鋒とした。孫儒は常々「丈夫たる者、万里の遠きで苦戦すべきではない。賞罰は自身にかかっており、どうして人の下につけようか。生きて富貴になれなければ、死んで廟のお供えでももらえるというのか」と言っていた。しばらくもしないうちに汴兵が蔡州を攻撃し、秦宗権は孫儒を召還したが、孫儒は病と称して行かず、秦宗衡が督促に来た。そこで大宴会を幕下で開いて、酒宴がたけなわになると秦宗衡を斬り、その軍を併合した。劉建鋒・
許徳勛らと同盟を結び、騎兵七千を有し、そこで付近の州を攻略・平定し、一月もしないうちに、兵は数万となり、「土団白条軍」と号した。
文徳元年(888)、揚州を破り、自ら淮南節度使となり、
時溥と同盟した。それより以前、
朱全忠はかつて書簡で孫儒を招き、そのためまた
汴と誼を結び、また
秦宗衡・
秦彦・
畢師鐸の首を送り、朱全忠はかこつけて上奏した。昭宗は孫儒に検校司空を授け、朱全忠からは招討副使に任命された。
龍紀年間初頭(889)、全軍で宣州を攻めると、
楊行密は淮南を奪取したが、孫儒が帰還した。楊行密は敗走し、始めて潤州・常州・蘇州の三州を得て、兵はますます強力となり、
劉建鋒に潤州・常州を守備させた。
朱全忠は楊行密と約束してこれを版図とした。孫儒は江南を平定しようと謀り、そこで北を天下と争い、朱全忠に隙につけこまれるのを恐れ、人を派遣して言辞をへりくだって厚く贈り物したから、朱全忠は朝廷に推薦し、詔して淮南節度使を授けられた。
大順元年(890)、
楊行密は潤州を奪取し、
安仁義に守らせ、常州は李友に守らせた。
孫儒は怒り、その軍を三分割して江を渡り、
劉建鋒に再び常州・潤州を陥落させ、安仁義は逃走した。
朱全忠は将軍の龐従らの軍十万を派遣してにわかに高郵に到着し、孫儒は全軍で防ぎ、そのため安仁義は隙をついて潤州を奪取し、
劉威・
田頵らは劉建鋒を武進で破り、常州を奪った。杭州の
銭鏐の将の
沈粲は蘇州から孫儒のもとに逃走し、楊行密の諸将で潤州・常州にいた者は、全員劉建鋒に駆逐され、安仁義・田頵は潤州を放棄して逃走した。
翌年、孫儒は兵を率いて京口より転戦し、劉建鋒を召集して全軍で行軍した。
楊行密の諸将で険所に駐屯した者は、孫儒がやって来ると聞いて、皆逃走した。
田頵・
劉威らは兵を合わせて三万で孫儒を黄池で迎撃した。孫儒は
馬殷を派遣して攻撃して敗走させた。孫儒は広徳に陣を敷き、勝利に乗じて東渓に到着したから、淮の人は大いに恐れた。楊行密は
台濛を派遣して西渓に駐屯し、自らは軍を率いて迎撃した。孫儒の軍は楊行密を幾重にも包囲すると、黒雲将の
李簡は騎兵で馳せ参じたから、楊行密は脱出できた。孫儒は遂に宣州を包囲し、楊行密は援軍を銭鏐に要請した。たまたま渓の南蛮潦が蜂起し、広徳・黄池の諸城はすべて陥落してしまい、孫儒は兵を分割して和州・滁州の二州を奪取した。
その秋、孫儒は揚州を焼き払い、西に引き揚げ、遠近に檄文を送り、兵五十万を号し、旗指し物が道に続くことは数百里に及び、通過した場所の家々を焼き、老弱を殺して軍の兵糧に給付した。
楊行密は恐れ、遁走しようとした。
戴規は、「孫儒の軍はしばしば敗れており、今地を掃くように払底させてやって来ており、我らと生死を決しようとしています。もし我らが降伏した者を揚州までの間に遣わして、慰撫して衣食を与えるなら、孫儒の軍でその家が完うしているのを聞かせるなら、人々は帰りたいと思うから、戦わずして捕虜にできるでしょう」と言い、楊行密はそこで親將を派遣して揚州に入らせ、孫儒の軍営の糧食数十万斛を飢えた民に与えた。孫儒は広徳に駐屯し、
陶雅は騎兵で孫儒の先鋒を破り、厳公台に駐屯した。十二月、
田頵・
劉威は孫儒と決戦したが、すべて大敗した。孫儒は軍営をまとめて西に進み、楊行密は
陶雅を潤州に駐屯させ、その帰路を塞いだ。
景福元年(892)、孫儒は再び宣州を包囲し、陵陽に陣を敷いた。
楊行密は戦うも不利で、出奔しようと図ったが、当時、
劉威は獄に繋がれ、死罪に相当したが、楊行密は窮して、改めて劉威を召還して計略を尋ねた。劉威は「孫儒は倉庫を焼き払い砦を潰してから、兵糧は尽きて我らの捕虜になろうとしています。もし精兵で城の背後を攻撃したなら、座してその苦しみを制することができるでしょう」と答えた。
李神福もまた険所によって孫儒の兵糧を攻撃するよう要請した。楊行密はそこで兵を分割して広徳を攻め、立て籠もって糧道を絶った。孫儒の軍はたまたま疫病が流行り、孫儒も痁(マラリア)に倒れ、
劉建鋒・
馬殷を諸県に派遣して徴収させた。楊行密は城下の兵が少ないのを知って、そこで夜明けに打って出て、
安仁義・
田頵を率いて城の背後に出て決戦を挑み、五十壁を破った。たまたま暴風雨で暗くなり、孫儒の軍は大敗した。孫儒は重病で、足が震えて起き上がることができなかった。田頵は孫儒を捕らえて楊行密に献じ、諸将も全員降伏した。孫儒は市で処刑されるに臨んで、劉威を見て、「君の謀は当たったな」と言った。孫儒はかつて鏡で見ながら首をかいて「この頭は久しからずして京師に入るだろう」と言った。ここに到って首は宮中に伝えられた。劉建鋒・馬殷は哭泣し、互いに「公は常に死んで廟のお供えでももらえるというのかと言っていたが、我らには土地がある。廟を建てて徳に報いよう」と語り、そこで馬殷は湖南を根拠地とすると、上表して孫儒に司徒、楽安郡王を追贈し、廟を建てて祀った。
最終更新:2025年01月27日 01:14