董昌

董昌

846-896
唐末の武将・叛将・藩鎮・群雄。大越羅平皇帝(在位895-896)。杭州臨安の人。はじめ土団軍(民間防衛隊)に籍を置き、軍功によって石鏡鎮の将となり、中和三年(883)杭州刺史路審中の任地を妨害して自ら刺史となり、劉漢宏を破って、義勝軍節度使・検校尚書右僕射に任じられた。朝廷に貢納をあつくしたため、検校太尉・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、隴西郡王に封じられた。当初善政をしいたが、次第に苛政となり、自らの生祠をつくり、判決や任用をサイコロで決めるなど横暴を極めた。ついに乾寧二年(895)に皇帝に即位し、国号を大越羅平とし、自らを聖人と称し、順天と改元した。鎮海節度使の銭鏐が皇帝即位を責めて攻撃の姿勢をみせると、部下に罪をなすりつけて逃れようとして、その部下を銭鏐のもとに送りつけたが、通用するはずもなく、銭鏐の攻撃を受けた。楊行密の救援を受けたものの、銭鏐の将軍顧全武の猛攻を受けてついに捕らえられ、一族もろとも処刑された。『新唐書』に伝がある。

年号

天冊(順天とも) 895-896

后妃

(存否不明)

子女

董承和

宰相

李邈 895-896
蒋瓖 895-896

列伝

『新唐書』巻二百二十五下 列伝第一百五十下 逆臣下 董昌

外部リンク

董昌(大越羅平皇帝)_百度百科(中文)
https://baike.baidu.hk/item/%E8%91%A3%E6%98%8C/17782

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最終更新:2025年08月18日 01:04
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