顧全武 こぜんぶ
866-905
唐末・五代の武将。
銭鏐の部将。越州余姚の人。若い頃は僧で、儒教に通じて才略があった。銭鏐に見出されて将軍となり、「顧和尚」と称された。武功によって累進して都知兵馬使となり、乾寧三年(896)
董昌が越州で叛すると、その将の崔温・李蕙を破り、両将を斬った。さらに嘉興を救援して、烏墩・光福の二寨を破り、西陵から董昌の部将の徐珣・李元賓を破って降伏させた。石城を攻撃して守将の湯臼を逃したものの撃破して石城を占領した。さらに転戦して余姚を包囲すると、董昌より派遣された徐宣を伏兵で破って捕虜とし、翌日、余姚の守将の袁邠も降伏した。勝ちに乗じて越州の城下に到達し、董昌は自ら五雲門に登って督戦し、幾度も出兵してきたがすべて撃退した。これらの軍功により諸軍都虞侯、東面都知兵馬使に任じられた。
楊行密は董昌救援のため
台濛を派遣して蘇州を包囲させたため解囲した。董昌が滅ぶと検校太保、明州刺史に任じられた。乾寧四年(897)楊行密の将の
田頵・
魏約・張宣が嘉興を包囲すると救援に向かい、魏約・張宣を捕虜とした。光化元年(898)、楊行密の部将の
秦裴が崑山鎮を奪取すると、ただちに反撃・奪取して秦裴を捕虜とした。天復元年(902)銭鏐が強盗に殺害されたとの流言が流れると
李神福は臨安を急襲したため、顧全武は八壁を列べて対陣した。
李神福の伏兵のため大敗して捕虜となった。翌年釈放され、長興元年(930)病死した。『九国志』に伝がある。
列伝
『九国志』巻五 呉越 顧全武
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最終更新:2024年05月25日 00:44