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ソフィア王国内戦

概要

パリック歴1929年10月1日~1933年6月まで続いたソフィア王国の内戦。国民福祉党政権の王制廃止動議に端を発した王党派議会派による内戦で、王党派が戦争に勝利し王制は維持されたものの、多数の死傷者を出し国家は荒廃した。

背景


立憲王政党政権の時代

 ソフィア王国の成立からコーポラティズム的性格の強かったソフィア王国の議会政治は合意型民主主義を体現するような政情であったが、1910年代までの長期政権、立憲王政党は権力基盤の安定の為に不正を躊躇わない合意形成を実施した。これはコーポラティズム的傾向にあった議会政治を纏める上で有効に機能したが、同時に腐敗を助長する事ともなった。また多数派工作を繰り返す過程で、より有力な資産階級の主張を取り込む過程で立憲王政党は中道右派政党から、資産階級の利益を優先する政党へと変質していった。こうした変質は、長期政権の最中において教会や資産階級への優遇政策と庶民に対する冷遇に繋がり、格差の拡大と社会不安の増大につながった。
 こうした議会政治の私利私欲の追及を政治的に利用していたのが国王ジルベール1世であった。彼は自身の政治的影響力を行使して貧民の救済に努め、大衆からは「議会や政府は自分たちを無視するが、国王陛下は臣民を常に気にかけて下さる」というイメージを作るのに成功した。多くの庶民や、特に識字率が低く貧困にあえぐ地方農村の農民は「ジルベール1世が我々の苦境を御存じになれば、必ず私達をお救い下さるに違いない」と信仰していた。但し、この手法は代々のソフィア国王が繰り返している手法であり、特に目新しいものではなかった。
 しかし、1921年、ジルベール1世とその妻は登山事故で崩御する。この後を継いだのが21歳のクローヴィス王で、エミーリア王妃と結婚したばかりであった。
 クローヴィス国王は政治的にリベラルで、「君臨すれども統治せず」の象徴君主こそが最も良いとの信念を貫いて政治に介入する事を拒否した。しかしこのために腐敗が進んだ議会は王室の介入無しに政治家や圧力団体の個人的利益の追求が可能となり、腐敗不正が放置されて悪化した。このため、国内では議会政治に対する不信感や不満が増加し、政治的分断や対立が先鋭化していった。だが少なくとも大多数の国民は、伝統的な国王の政治介入が行われるものと信じており、国民の多くは家庭的で、温厚で国民に対して思いやりのある国王が悪い事態を救ってくれると信じていた。

国民福祉党政権の成立

 立憲王政党時代の長期政権で経済格差の拡大と貧困層の生活水準低下は深刻な段階に達していた。既存の政党や有力な圧力団体、労働組合でさえ利権に浸かっており、こうした労働層を支える労働組合を支持基盤とする国民福祉党は党と労働組合の有力者に利益を斡旋するだけの政党と化していた。
 政治が貧困層を無視する中、立憲王政党の連立政権下で財務大臣の経験を持つ都市貧困層出身の大富豪ピエール・デュカスは都市貧困層を救済すれば、彼らが大きな票田になると見抜いた。ピエール・デュカスは莫大な賄賂を用いて国民福祉党の党首に選出されると、彼は反腐敗キャンペーンを打ち出して党の改革を図った。この一連の改革は成功し、党内の政治権力を彼に集中させた。また低所得層への支援をおこない、党の信頼回復と支持者の獲得に成功した。
 また国民福祉党は民主労働党をはじめ乱立していた小政党を吸収合併して勢力を拡大した。その手法は従来の多数派工作とほとんど同じであったが、立憲王政党に次ぐ大勢力を維持するに至って多数派工作と腐敗からの離脱を宣言した。
 従来の救貧支持が功を奏して都市貧困層の支持もとりつけ、国民福祉党はアルピナ市、メスデンテ市の地方選挙で勝利した。次いで1925年には国政選挙でも勝利し、立憲王政党体制を崩壊させ、国民福祉党政権を発足しピエール・デュカスは首相に就任した。
 国民福祉党政権は教会に対して課税に踏み切った。また同時に多額の国債を発行して教育福祉の拡充に充て、労働法を改正して労働者を保護した。
 これらの一連の政策は、旧立憲王政党政権時代に大いに恩恵を受けてきた資本家や富農、教会の強い反発を受けたが、貧困層や労働者階級から圧倒的な支持を得て乗り切った。ピエール・デュカス首相は教会から破門されるも、かえって教会の搾取に苦しめられてきた貧しい大衆から支持を強めた。
 国民福祉党政権はお世辞にも清廉とは言えなかったが、これまで王室が担ってきた役割を肩代わりすることで、王室に代わる存在としての地位を確立していった。

軍縮の敢行と軍の反発

 1920年代、ソフィア王国の軍事力は人口1000万人の国家の規模としては異例であった。陸軍常設師団15個35万人、戦車680輌、空軍航空機1600機、海軍はアキピテリア共和国と合同とは言え巡洋艦6隻、駆逐艦9隻、総兵力は42万人に及んだ。この国防予算は膨大な金額に及んでおり、ソフィア王国にとって過剰な負担であった。ピエール・デュカスを筆頭に国民福祉党政権は福祉政策の継続のためにはこの莫大な軍事予算を削減し、それを財源に充てる必要を確信していた。
 これまで軍縮政策は軍が退役軍人の会を通じて議会で強く反発しており、国民福祉党政権は退役軍人の会を無視できなかった。だが国民福祉党政権は退役軍人の会の汚職、不正を調査、公表、告発することで退役軍人の会の影響力を削ぐことに成功した。
 国民福祉党政権は国内の強い支持を背景に軍縮を敢行できる状況にあった。陸軍経営の鉄道民営化、陸軍7個師団、空軍航空団2個の統廃合、解散が決定。旧式の戦車や航空機の退役は急速に進めるものの、これを代替する新兵器の調達計画が中止された。また海軍に至っては合同艦隊制の廃止と艦隊の売却が検討された。
 この大規模な軍縮はピエール・デュカス首相の意見では軍縮による軍事予算の削減により浮いた予算が国内の工業化や産業の促進に充てられるため、退役軍人はすぐに職が見つけられ、より豊かな生活が送れるはずであった。しかし実際には一部の技能を持つ将兵は速やかに再就職ができたものの、多くの将兵は結局軍隊の生活よりはるかに悲惨な生活環境の農村や都市で暮らすしかなかった。国民福祉党政権はソフィア王国軍がある種の貧困層のセーフティーネットとしての機能を果たしていることを理解していなかったか、意図的に無視した。
また、合同艦隊の廃止は同盟国アキピテリア共和国との軍事的連携と同盟国の安全保障に致命的な影響を及ぼすため、アキピテリア共和国は外交ルートを通じて現在の同盟関係の維持を要求し、軍は国王に軍縮計画への介入を要請した。しかし国王は政治介入を拒否したため、軍は軍学校に就学中であったクラーラ王女に陳情した。国民に人気があり、軍隊を好み同盟国との関係を重視する王女を焚きつけて政治介入を行わせた。この介入は部分的に成功し、合同艦隊は維持された。しかし、この事件を受けて首相と王女の関係は悪化した。
 またピエール・デュカス首相は政治的に無能な王女でさえ政治的に重大な影響力をもつ王室の強さを改めて認識し、警戒した。首相は従来の政治に介入するソフィア王室の強さをはっきり理解できていなかった。しかし王室は国民からは信仰に近い不思議な信頼感を抱かれていたし、国民に親しく接する王女も国民の何の根拠もない期待や信頼感を背景に政治的に介入することが出来た。
 王女の政治介入以来、ピエール・デュカス首相は王室の権力の縮小の為の様々な改革立法を矢継ぎ早に進めた。国王は政治に介入しない体制を理想としていたため首相の政策を容認したが、王女や王室関係者は激怒した。
 少なくとも、国王に親和的な人々は政府の王権に対する挑戦は政権に対する不信をしめした。一連の出来事は少なくとも一定程度王権は信頼されており、特に国王クローヴィスはそのリベラルな性格のために、国民福祉党の改革支持の人々からも殆ど無条件に敬慕されている事を示していた。

国王暗殺事件

 中略 そもそも立憲王政党政権は確かに腐敗していたが、腐敗は東西南北の地域間の格差や緊張関係、階級間の緊張関係に対する処方箋であった。国民福祉党政権の一党優位は改革と利益の再分配には役立ったが、腐敗により防いでいた分断を再び引き起こすことにつながった。今やだれもが相互不信に陥り、異なる階級を互いに憎悪していた。このまま分断が進めば、この国で起こっていた伝統的な国王の政治介入が実現するかもしれなかった。クローヴィス国王はそれをしないと考えられたが、首相は決して自分以外の人間を信用しなかった。その時、首相はフィリップ大公が王位を狙っていることを利用して、王室を物理的に抹殺してしまう事を計画した。王室メンバーを暗殺し、その後フィリップ大公を暗殺して一連の計画の首魁であるとしてしまえば、首相はこの国を共和制国家に替える事が出来ると考えた。
 首相はフィリップ大公に王位継承を唆し、1929年7月、首相を信頼する国王クローヴィスとその王太子ローランを事故に見せかけ暗殺した。この時、ピエール・デュカスの計画では同時に王妃エミーリア、クラーラ王女も暗殺される手はずであったが、第二子ジルベールを妊娠していたエミーリア王妃はたまたま帰国していた為偶然にも難を逃れ、クラーラ王女はフィリップ大公と良好な関係であったため、フィリップ大公により暗殺のリストから外されていた。
 フィリップ大公の計画では国王の暗殺と共に首相がフィリップ大公に王位継承を認める手はずっであったが、ピエール・デュカス首相はフィリップ大公を王位につけるつもりは更々なかった。ピエール・デュカスは王室暗殺のために共産主義者とも接触しており、国王暗殺のあと直ちに共産主義者がテロを開始。フィリップ大公とその家族が爆殺、国王葬儀のため帰国中のラナーン道楽公が登場していた航空機が爆破された。クラーラ王女とエミーリア王妃の周辺でも不穏な出来事が続発し、クラーラ王女が銃撃される暗殺未遂事件も発生、クラーラ王女は信頼する近衛師団のもとに身を寄せ、エミーリア王妃はヴィエナのルーク城に避難した。
 一連の事件ののち、国民福祉党政権はこの一連のテロ事件は共産主義者によるものと発表。各地で共産主義者の掃討が開始され、147名の共産主義者が射殺された。しかし、このころピエール・デュカス首相による国王と王族の暗殺が噂されるようになった。
編集中
クラーラ王女はエミーリア妃と相談の上これを準備しつつも実行は保留し、刑事告発する道を選んだ。
 1929年8月、王室の法定弁護人が王族暗殺の一連の事件を刑事告発し、これは国内外を巻き込んだ一大スキャンダルとなった。しかし、政府側から多額の賄賂を受け取った高等裁判所はこれを棄却。王室はこれを不服として上告したがこれも棄却された。しかもこの間10月までに王室側の法律関係者、王室よりの警察関係者、司法関係者が相次いで不審死、異動、解雇されるなど不審な動きが続き、政府が厳戒令を発布するに及んでクラーラ王女はクーデターを実行するに至った。

内戦

1929年10月~1930年7月のキャンペーン

 クラーラ王女は近衛師団をもって首都デミソフィアに進攻(月光1号作戦)、クーデターを宣言した。しかし、このクーデターを予見し、準備していたピエール・デュカスは首都を対比すると直ちに王制の廃止を宣言し、クーデターの武力鎮圧を宣言する。ソフィア王国内戦が勃発した。陸軍は王党派には近衛師団、第2師団、第7師団が呼応したが、第2、第7師団は山岳師団であり機動力が低く、クーデターの実行は機動力の面でも近衛師団が主力となった。政府(議会派)には第1、3、6師団が帰順した。第4、5師団は王党派と政府派で直ちに分裂状態に陥り、師団内でも内戦ともいうべき混乱によって行動不能に陥っていた。ただし議会派陣営も第1師団さえ王党派と議会派に分かれて混乱状態にあり、完全な掌握には時間がかかった。首都に侵攻した王党派近衛師団は王党派に分離した第1師団の一部部隊を吸収して一時的に首都を掌握したが、議会派第1、第3師団が反撃に転じてデミソフィアで激しい市街戦が展開した。市街戦の初期は互角の戦いが繰り広げられていたが、王党派は長期戦の準備をしておらず、議会派が第4師団を掌握してデミソフィアに投入すると武器弾薬、戦力不足から苦戦を強いられた。さらにクラリッサ方面では第6師団のメイユボア将軍が第5師団の混乱の収拾を支援し、クラリッサ方面南部で第7師団を攻撃して北東部のヴィエナ方面に進出してきたため、近衛師団は1929年の大晦日にヴィエナに撤退した。議会派は第1、第3、第4師団により追撃したが、第1師団はこれまでの戦闘で損耗が激しく、第3、第4師団もレダ川で追撃を阻止された。(第一次デミソフィアの戦い)
 戦線は小康状態に落ち着いたが、王党派はヴィエナで包囲され、王党派はクーデター開始直後からレオネッサ王国の支援を要請しており、支援が得られる見込みが立っていたためヴィエナでレオネッサ軍が来援するまで籠城を決意し、防御態勢を構築した。
 一方の議会派は王党派の撃滅を意図し、第1、第3、第4師団からなる北部方面軍を編成してエスクラポンが直接指揮してヴィエナを攻撃した(第1次フランベルジュ作戦)。この攻撃にはそれまで敵味方の識別の困難さから消極的な作戦行動を強いられたうえ、王党派に離脱した多数の戦闘機やパイロットを失っていた議会派空軍が再編成を完了して地上部隊の支援にあたった。
 北部方面軍の攻撃に対応したのは近衛師団、第2師団で、第7師団はレオネッサとの国境要塞に籠城していた。議会派は激しい抵抗を受けながらどうにかレダ川を渡河して攻勢を続け、2月にはアリベ市で激しい市街戦に突入したが、3月には王党派の反撃により対岸に押し戻された(アリベ市の戦い)。南部ではメイユボア将軍に攻撃が要求されていたが、国境の山岳要塞に立てこもる第7師団を攻撃するには第6師団は機械化されすぎて山岳戦に向いておらず、第5師団は疲弊しきっていた。そのうえ明らかにレオネッサ軍が介入する様子を見せてきたため2個師団はレオネッサ軍に警戒するために張り付けて置かねばならず、小部隊による小規模なかく乱攻撃に留まったため、戦線に変化はなかった。4月には両軍ともに戦力を消耗しつくし、戦線は7月まで小康状態に戻った。

1930年7月~11月のキャンペーン

  王党派は半壊していたアリベ市に王党派総司令部と暫定政府を置きレオネッサ王国による支援を要求していた。王党派としてはファシスト・レオネッサには非常に警戒していたが、アリシア共和国は国民福祉党政権を支持し、イーゼンステイン王国は中立を表明したため、王党派が頼れるのは同盟国アキピテリア共和国と、ソフィア王室と縁戚関係にあるレオネッサ王国だけであった、このうちシルヴィアの国際情勢の悪化からアキピテリア共和国軍の支援は合同艦隊と近衛師団の有翼騎兵連隊しか当面は期待できない以上、レオネッサ王国に頼るほかに選択肢がなかった。
 レオネッサ王国を事実上掌握しているレオネッサ・ファシストの統領はこの支援要請をソフィア王国をレオネッサ王国の影響下に置く好機と捉えた。統領はクラーラ王女の元婚約者であり、ファシズムへの傾倒を強めていたカミッロ王子を名目上の指揮官とする義勇軍を派遣することを決めた。この軍事介入はファシスト政権の権威を高めるために地上部隊は黒シャツ師団を主力としたファシスト義勇軍と、正規軍の空軍から編成したレギオン航空団からなっていた。王党派とレオネッサ王国の協議により、ヴィエナ方面の王党派を第1軍と定めた。
 1930年7月1日、戦車を先鋒にファシスト義勇軍は第7師団に歓迎されながら国境を越えた。ファシスト義勇軍は国境を守る第5師団に殺到し、内戦初期の混乱で疲弊していた第5師団を蹴散らして沿岸沿いに急進、シンシア港を目指したが、第6師団が救援に入ると進撃は食い止められた。この時ファシスト義勇軍の様々な欠陥が露呈した。レオンチェッロ師団の植民地兵は勇敢だったが装備が貧弱で、黒シャツ兵は訓練が不十分で、戦争に対する動機が不十分だった。半壊状態の第5師団を攻撃したときにさえ、決然と抵抗する議会派兵士に動揺し、第6師団の猛反撃に直面するとこの欠陥が露呈した。国境を越えた時には王党派第7師団の熱烈な歓迎を受け、半ばピクニックのつもりで出征した兵士たちは動揺し、隣国の内戦への特に必要もない介入では士気が回復しなかった。若手将校は受動的で消極的だった。ソフィア軍は国民福祉党政権の軍縮で削減された師団の装備を残存師団が吸収しており、通信装備や砲兵戦力が明らかに充実し、しかも強力だった。これは自動車化された第6師団に特に当てはまり、第6師団は優れた通信能力と、155mm砲以上の重砲の配備数が非常に多かった。第6師団の戦闘能力はすさまじく、1個師団でファシスト義勇軍3個師団を食い止め、部分的には反撃さえした。
 一方でファシスト義勇軍は航空機の性能で明確に勝っており、パイロットは正規軍で練度も低くなかった。特に優れた性能を発揮したC.200戦闘機は王党派にも緒戦から配備され、王党派パイロットはファシスト義勇軍から訓練を受けた。
 ファシスト義勇軍は国境を越えて1週間でいったんは進撃を食い止められてしまったが、ここで王党派第7師団がファシスト義勇軍を支援する為に南下し(月光2号作戦)、北に展開したヴィンチェーレ師団と連絡した。名目上の司令官であるカミッロ王子は積極的に航空部隊の活用を要求し、結果としてファシスト義勇軍は積極的に航空作戦を展開して地上部隊の進撃を援護していった。1930年8月19日、2か月間の第6師団との壮絶な戦闘の末ファシスト義勇軍はシンシア港を攻略した(シンシア攻略戦)。一連の戦いでファシスト義勇軍は一応は勝利したものの大きな損害を受けて部隊の補充と再訓練の為停止することとなった。しかし、シンシア港攻略の影響は大きく、シンシア港から大量の物資の供給を受けられ、合同艦隊の母港とすることもできた。アキピテリア共和国から有翼騎兵の派遣を受けられたのも非常に大きかった。

1930年12月~1931年11月のキャンペーン

 1930年12月、議会派では動員師団3個が編成された。騎兵連隊を持たない代わりに3個歩兵連隊からなる師団で、第2師団が北部方面軍。第7師団がそれまで第6師団長だったメイユボア将軍を指揮官とする南部方面軍に配備された。いったんは劣勢に立たされた議会派だったが、12月の時点では兵力面で優位に立った。戦線は半年近く小康状態を保っており、戦力的に優位に立った議会派は攻撃の好機が到来したとして4月1日、大規模な攻勢作戦を実施した(キングズギャンビット作戦)。
 北部方面では北部方面軍4個師団による攻撃に対してヴィエナの王党派は近衛師団、第2師団が迎撃した。近衛師団、第2師団も強固に築城された陣地と強力な砲兵に拠って戦ったために、大規模な攻撃にもかかわらず成果は出なかった。王党派第7師団が反撃の為に南から機動してくると議会派はそれに1個師団を割かねばならなかった。議会派は北部方面では1931年10月までに5回の総攻撃(各第2~第6次フランベルジュ作戦)を実施したが、最終的に王党派を撃破するには至らなかった。
 一方南部方面では南部方面軍が第6師団を先鋒に攻勢を仕掛けた。ファシスト義勇軍はフィアンメ師団、ヴィンチェーレ師団が痛打を受け、ファシスト義勇軍は分断され、シンシア港が包囲されるなど戦線崩壊の危機に陥ったが、ここでもレギオン航空団による強力な地上支援が行われ、沿岸では合同艦隊の艦砲射撃がファシスト義勇軍を援護した。また本国から第136レオーネ機甲師団が投入されたことでどうにか崩壊を食い止めた。レオーネ師団は正規軍機甲師団で、M13/40中戦車228輌を配備していた。レオーネ師団は激しい空襲を受けながらなおも前進する第6師団と衝突し、オルハで大規模な戦車攻撃を展開した。第6師団の攻撃は撃退され、巨大な突出部を形成して停止した。ファシスト義勇軍は大きな損害を受けていたが、シンシア港を救出し、突出部の議会派を撃破するために反撃に転じた。このころのファシスト義勇軍は長く訓練を続けてきた事で戦闘能力が改善しつつあった。まだ戦闘能力の残っていたレオーネ機甲師団、レオンチェッロ師団の反撃により第6師団は後退を余儀なくされた。ファシスト義勇軍の損耗は激しく、南部方面軍は補充を受ければ形成を逆転できたかもしれなかったが、立て直しをしようにも北部方面軍に戦力を吸い取られて補充を受け取ることが出来なかった。1931年9月にはシンシア港を包囲していた議会派第7師団は後退して同港は解放され、戦線は整理され、再び小康状態に戻った。
 航空作戦では、キングズギャンビット作戦で議会派は新型航空機を組織的に投入した。MB.151および152はエンジン加熱や運動性に課題があったもののC.200と互角に戦い、FOXとBULLDOGを性能的に圧倒した。ただし、主力機は相変わらず旧式機であり、航空戦力の劣勢は議会派に不利に働き続けた。

1931年11月~1932年3月

 王党派陣営は部隊の再編成を進めた。王党派は近衛師団、第2、第7師団の再編に取り掛かると、新しく2個師団の編成にも取り掛かろうとした。だがファシスト義勇軍の壊滅的被害を受けたフィアンメ師団、ヴィンチェーレ師団の回復にも努めなければならなかった。レオネッサ王国もまたシルヴィアで勃発したアリシアとフィンスタアニアの全面戦争に衝撃を受けており、シルヴィア防衛に戦力を割かなくてはならなくなった。レオネッサに兵員の支援を求められた王党派は2個師団を編成するのを諦め、第1師団を編成して2個師団目を諦め、フィアンメ師団、ヴィンチェーレ師団の歩兵連隊にソフィア軍歩兵大隊を編入させて戦力の回復に努めた。また、王党派空軍は新たにイーゼンステイン王国から取得に成功したBATTLE軽爆撃機で空軍の航空機材を回復した。これらの機体は性能的には不満足なものであったが、イーゼンステイン王国を王党派の味方につけたという点で決定的な意義を持っていた。
 一方で議会派は状況が悪化していた。このころアリシア共和国はシルビアでフィンスタアニア共和国との全面戦争に突入しており、圧倒的なフィンスタアニアの軍事力に議会派を援助する余裕を完全に失っていた。おりしも、イーゼンステイン王国が王党派に武器を売却して王党派を支持するに及んで、王党派が勝利してもイーゼンステイン王国の介入でソフィアがレオネッサ王国の支配下に置かれることは避けられると分析したアリシア共和国は、議会派に死刑宣告ともとれる軍事支援の打ち切りを通告した。
 アリシアの軍事支援の打ち切りを受けて強い衝撃を受けた。議会派陣営ではこれまでの攻撃的な戦略を変更し、キングズギャンビット作戦により大損害を受けた議会派部隊の再編に努めるとともに航空機などの重要な兵器の調達先を確保し、急ピッチで生産されるAMC35の配備を進めるまでは断固防御に徹することに決めた。しかし、肝心の航空機の取得先は直ちには見つからず、FOXの生産工場や戦車工場も空襲にさらされていた。議会派は新型戦闘機の調達先を求めつつも、航空機の取得の見積もりが立たない以上、防空は対空砲兵に依存せざるを得なくなっていった。また、キングズギャンビット作戦で喪われた人員を確保するために徴兵基準外の市民の動員を開始した。市民は共和国市民防衛隊として動員されたが、老人や子供、徴兵基準を満たさない体格の市民の素質は低く、また装備も被服も不足していた。

1932年4月~12月

 王党派陣営は攻勢を計画した。

終戦

最終更新:2026年07月19日 01:43