無題
地獄とはいったいなんだろう。
洋の東西を問わず、それは人間が死後に生前の悪行の報いを受ける場所として認知されている。
地獄、黄泉、冥界、ジャハンナム。
地域によって呼び名が違えど、それは同じだ。
ダンテの神曲によると、地獄の入り口となる門には「この門をくぐるものは一切の希望を捨てよ」と記されている。
そこでは希望など考えるべくもないほどの責め苦が永遠に近い時間、あたえられ続ける。
裁かれるのは、愛欲におぼれたもの。
大食の罪を犯したもの。
貪欲なもの。
怒りに我を忘れた憤怒者。
暴力を振るったもの。
悪意を持って罪を犯したもの。
そして何より重い罪を犯したとされるのは、裏切りを行ったもの。
この
バトルロワイアルの参加者たち。
その中で、今現在生き残っている者の中で、これらの罪を一つでも犯していないものはいない。
それは生き延びるためか、それとも己の目的のためか。
だが主催者であり、すべての元凶であるユーゼス・ゴッツォも含めて、地獄に落ちることを恐れる者など、もはや誰一人いないだろう。
なぜならば――この世界がすでに地獄そのものだからだ。
◇ ◇ ◇
それは黙示の瞬間なのか。
色を失った空。
震える大地。
滅びのときを待つだけの世界の真ん中で、巨大な天使と傷ついた悪魔は対峙する。
天使はその四肢をだらりと宙空に投げ出すようにして動かない。
ゆっくりとそれに近づく悪魔王、ディス・アストラナガン。
その操者たるクォヴレー・ゴードンは現状を理解できていない。
敵は目の前だ。それはわかる。
しかし「あれ」はいったいなんだ?
ラミアのラーゼフォンに似ているといえなくもない。
だが自分と同じ、イングラム・プリスケンの顔を持った真っ白な神像は――一体、何なのだ。
混乱。
操縦桿を握るその手は何か見えざるものに絡みつかれたかのよう。
戦慄。
冷たい汗が背中を伝う。
それらの負のプレッシャーを振り切って、クォヴレーは半ば絶叫のような声で呼びかける。
「お前は誰だっ!その機体はラミアか!答えろっ!…………まさか!」
その声に応えるものはいない。
イングラムの顔をした天使は宙空に固定されたように微動だにせず、ただ俯いている。
クォヴレーの脳裏をケイサル・エフェスと対峙したときの記憶がかすめた。
まつろわぬ魂たちの集合体が実体化した、因果のすべてを滅ぼそうとするもの。
それがケイサル・エフェスだった。
目の前の神像は同じものだ。
クォヴレーには今、確信に近い予感がある。
これはあらゆるものに災いしか振りまかない。
倒さなければならない。
滅ぼさなくてはならない。
そしてこの状況を考えれば、ほぼ間違いなくユーゼスの仕業だ。
それだけははっきりしている。
……しかし、できるのか?
クォヴレーの心に浮かんだ弱い考え。
あの時とは違う。
アラドとゼオラはいない。
リュウセイたちもいない。
たった一人。
そしてこの世界で再び記憶を失いながら、だが新たに得た仲間たちもすでに失ってしまった。
トウマ・カノウ。
会うことはなかったはずの別の世界のリュウセイ・ダテ。
ジョシュア・ラドクリフ。
セレーナ・レシタール。
リョウト・ヒカワ。
ガルド・ゴア・ボーマン。
そしてイキマ。
イングラムの遺志の元に集った
反逆の牙は一本、また一本、次々に折れて砕けて消えていった。
そして残った最後の一本はすでに傷だらけで、あまりに脆い。
折れかけたその牙を、あの怪物に突き立てることなど果たしてできるのか?
この期に及んで迷いがクォヴレーの心にへばりついて離れない。
だがそれは――――違う!
ケイサル・エフェスと同じだ。
あれは負の念の集合体。
心がわずかでも怯えれば、そこに付け込み傷口を広げる。
思い出せ、とクォヴレーは思考を研ぎ澄ます。
あの化け物が怖いのか。
ならば、逃げるというのかクォヴレー。
思い出せ。
もう一度、強く念じる。
ユーゼス打倒を誓った反逆の牙は、自分を除いてもう誰も残ってはいない。
次々と倒れていった仲間たち。
そしてクォヴレー自身もまた、同じ運命を辿るはずだった。
迷い、疑い、壊れかけて。
それを救ってくれたのは、その倒れていった仲間だったではないか。
――自分の信念くらい……貫いてみせろ。
その仲間の言葉が今、クォヴレーの中でよみがえる。
自分の信念とはなんなのか。
カプセルの中から生まれた真っ白な自分が、その心に刻んだもの。
光。
人々の笑顔。
ぬくもり。
それを……守りたいと思った。
そのための力を望んだ。
力を得るのと引き換えに果たさなければならない使命があった。
その使命のために、自分が守りたいと思ったその暖かい繋がりと触れ合うことはできないと知っても。
クォヴレー・ゴードンはすべてを承知で力を選びとり、守るために戦うことを決めた。
――俺の命、お前に預けたぜ、クォヴレー。
そういってくれた仲間がいた。
だが、その男の命はほんの少しのはずの別れの後で、あっさりと零れ落ちていった。
記憶を失ったクォヴレーにとって、それはあまりに大きな存在だった。
失った心の痛みで、道を誤ってしまうほど。
記憶を取り戻した今でも痛みは変わらない。
そしてその痛みのせいで、さらに取り返しのつかない過ちを犯した。
αナンバーズでの戦いでも、あの世界のアラドやゼオラたちのような身近な存在が失われたことはなかった。
自分たちがやってきたのは戦争だ。
死人が出なかったわけではない。
だがやはりそれは、クォヴレー自身に決定的な痛みを刻むほどのものではなかったのだ。
思い出せ。
心の奥の傷が、再び血を噴き出す。
だがこの痛みこそが人間の証だとクォヴレーは理解していた。
おそらく誰もが痛みを抱えて生きていくのだ。
そしてその痛みを抱え続けること。
その辛さを理解する人間が、他人を想うことができるのだろう。
クォヴレーは、自身のこの痛みを苦しいと思う。
そして誰もが抱えるであろう、大切なものを失うその苦しみを取り除いてやりたいと思う。
もし自分が戦うことでそれがわずかでも可能ならば――恐怖を乗り越えられる。
研ぎ澄まされた意思が、理不尽に人を傷つける存在への静かな怒りが、体の震えを止め、怯える心を奮い立たせる。
眼前に浮かぶ忌まわしき神像が災いと苦しみをもたらすのならば、この身に代えても打ち砕く。
この信念を――貫き通すために。
人形から人間へ。
悲しみと恐怖。
人形には存在するはずのない感情を持ち、それを以ってして人間の根元にある感情を乗り越えた。
クォヴレー・ゴードンは紛れもなく一人の人間となった。
「ラミア……」
クォヴレーは自分とよく似た女の名前を呟いた。
人形として生まれ、偶然
目覚めた自我。
人形と人間の狭間で悩み、傷つき、苦しみ抜いて、そして彼女には――「人間」が残った。
クォヴレーと同じように、しかし結果としてクォヴレーとは交わらない道を選んだ。
――これは人間――ラミア・ラヴレスとしての意思だ――!!
力強く、自らの固い決意を秘めた声だった。
だがユーゼスの剣になることを選んだ彼女を、やはりとめるべきではなかったか。
ラミアがユーゼスによって呼び出され、それを追ってきてみれば、待っていたのはラーゼフォンによく似た邪悪なオーラを纏った神像だった。
そしてその面にはイングラム・プリスケン、またの名を――ユーゼス・ゴッツォの貌。
この状況では彼女の安否について楽観的な想像などできない。
「だが……俺は……」
たったひとつ理解していることがあった。
今、迷えばその瞬間に、あの天使の闇に飲まれる。
だから、今はそれを振り払い、己のやるべきことを果たさなければならない。
後悔など後でいくらでもすればいい。
死ぬにせよ、生き延びるにせよ、今は戦う。
それ以外の選択肢などない。
まだミオたちが生きている。
まだ守れる者たちがいる。
ヴィンデルを殺してしまった罪滅ぼしなどとはいわない。
知らず知らずのうちにラミアの意思を侮辱してしまった償いでもない。
許してもらえるなどとは最初から思っていない。
ただ――守ると自分で決めた。
それ以上でもそれ以下でもなかった。
「俺は戦うぞ……ラミア、お前が選択したように」
これは自分の意思だ。
人間――クォヴレー・ゴードンとしての意思だ。
倒れた仲間たちの遺志を継ぎ、己の信念を貫き通す。
その固い決意を、命を、愛機たるディスの銃神に託して叫んだ。
「いくぞ……アストラナガンッ!!」
ひとりぼっちの反逆の牙。
悪魔は傷だらけの翼を広げて飛んでいく。
イングラム・プリスケンはもういない。
リュウセイ・ダテもすでに倒れた。
ならば――――、
「――ならば、この世界でユーゼスの野望を砕くのは!最後に残った俺の役目だッ!!」
◇ ◇ ◇
E‐5からD‐6へ。
フォルカ、ミオ、シロッコの三人は先にクォヴレーの説得に向かったイキマを追って移動していた。
彼らがその目的地である山岳地帯で見つけたのは、山そのものを削り取り、岩盤をバターのように溶かした破壊の跡だった。
そして、もうひとつ。
「……イキマさん」
ミオが悲しみをこめて呟いた。
彼女の視線の先、一目見てすでに行動不能とわかるほどに損傷したブライガーがそこに横たわっている。
ミオたちはそれを発見した後、動きがないことを確認。
すぐに機体から降りたフォルカがその内部に入り込み、パイロットの遺体を運び出した。
その遺体は最初、ミオと別れるときのイキマがアストラナガンに乗っていたことから、おそらくクォヴレー・ゴードンだと思われた。
クォヴレーの説得に失敗して、自衛のために撃墜したか。
最初はそう思った。
だが大柄で人間とは思えない肌の色、それは紛れもなく邪魔大王国のハニワ幻人、イキマだったのだ。
「どういうことだ。クォヴレー・ゴードンはどこにいったというのだ」
「……これを読めばわかる」
シロッコの疑問に、フォルカが遺体を担ぎながらも血染めのメモを掲げて答える。
イキマの遺体を大地にゆっくりと横たえてから、フォルカがメモに書かれていた内容を読みあげると、ミオは驚きに目を見開き、シロッコは整った眉目を思わず歪ませた。
「ちょ、ちょっと!この世界が崩壊って、私たちみんな巻き込まれて御陀仏ってこと!?」
「……あと六時間か。ハッタリにしては、随分と具体的だな。それにこの空の色は……」
シロッコの言葉とともに三人は頭上に視線を動かした。
一辺400kmの正方形のフィールド、その外周部に張り巡らされた光の壁が消えかけている。
そして上空にはラミアとともに撃墜したヘルモーズの姿はすでになく、何の変哲もない空が映し出されるだけのはずだったのだが――。
「空が……消える……?」
ミオの言葉通りだった。
よく見ると、青いはずの空も、輝く太陽もゆっくりと色を失い、そしてまた少し戻るという変化を繰り返している。
その向こうにほんのわずかに透けて見える何もない虚ろな空間の色は、三人が抱く不吉な予感を倍増させた。
「しかも風が……嫌な感じだ。それに大地が微かに震え続けている。止まる気配がない」
さらに機体から降りて生身で感じた感覚が、フォルカの修羅としての本能に警鐘を鳴らしている。
これはフォルカの勘でしかないが、おそらく崩壊というのは嘘ではないだろう。
「なるほど。どうやらこれからこのフィールド全体に影響を与えるようなことが起こるのは間違いなさそうだ。脱出の方法を考えなくてはならないな」
「脱出かぁ……そーだよねぇ」
この状況で冷静、いやのんびりといってもいいほどの落ち着きをみせる二人に、フォルカは思わず呟いた。
「……意外と落ち着いているんだな」
「危機感を抱いていないわけではないさ。だが生の感情を制御できぬようでは生き残れん」
「んー、クボ君がいれば何とかなるっぽいんでしょ?説得には成功したって言うし、ラミアちゃん説得、ユーゼス倒して皆で脱出!これで大丈夫だよ、きっと」
「できることならもっと具体的な作戦がほしい所だが……ユーゼスのクロスゲートとやらは利用できるものかな」
フォルカはこの力のことをここで話すか、と考える。
おそらく今の自分とソウルゲインならば可能だ。
ジュデッカ戦と同じく、次元を突き破る拳をもう一度放つことができる。
だがその転移先を指定できるわけではない。
しかも今まで接触した仲間たちとの情報交換では、それぞれが異なる時空から召喚されたらしい。
ゾフィーの力に念を込めれば、もしかしたらフォルカ自身の世界には戻れるかもしれないが、全員がそれぞれの元の世界に戻れる可能性はゼロに近いだろう。
そのことがひっかかって今まで軽々しく言い出すことはできなかった。
ぬか喜びさせて、かえって落ち込ませることになっては仕方がない。
「おーい、フォルカさん!フォルカ後ろー!」
「――――なっ!?」
ミオの声に思わず後ろを振り向くが――何もなかった。
「…………どういうことだ」
「あはははは、今時貴重なくらいなリアクションありがとー。怒ったらごめんね……考え事?」
「……いや、すまん。何でもない」
イキマが遺したメッセージによれば、クォヴレーの説得は成功しているはずだ。
そのまま彼と合流してユーゼスを倒すことができれば、フォルカの懸念は杞憂となる。
「ならば早く合流を目指そう。のんびりできるほど猶予はないはずだ」
「うん、そうだね。でもさ……その前にイキマさんを埋めてあげられないかな?マシンを使えば時間はかからないし……さ」
フォルカは大地に横たわるイキマの死体に視線を落とした。
その体の半分以上が血に塗れて赤黒く汚れている。
だがその表情は満足気で、何かをやり遂げた男の顔があった。
クォヴレーの説得に成功したというのは嘘ではないだろうと、フォルカはそれを見て確信した。
「そう……だな。世界が崩壊するとしても……せめてその瞬間までは安らかに眠らせてやりたい」
「うん……」
◇ ◇ ◇
黒い翼を羽ばたかせて、悪魔王は天空を切り裂く高速の弾丸となる。
相変わらず身動きひとつしない巨大な神像の周囲を、スピードを落とすことなく旋回。
その背後をとった。
動かぬならば、そのまま打ち砕くだけだ。
「メス・アッシャー……」
ディス・アストラナガンの背中、折りたたまれた翼から真上に跳ね上がるように出現する二門の砲身。
それは一門ずつが機体の左右の肩を中心にして縦に回転し、前方にその銃口を向けた。
漆黒の砲身は傷つき、ひびが入り、二門のうち片方は半ばから砕けて失われている。
ディス・レヴによって修復中だが、それを待つ暇もなければその気もない。
エネルギー収束。
ターゲット・ロックオン。
これが開戦の狼煙だ!
「――ダブルシュート!!」
爆光。
天使と悪魔を挟んだ空間を高圧のエネルギーが奔流となってほとばしる。
鼓膜をつんざくような高く大きな音が空気を引き裂く。
目もくらむような真っ白な光。
それはあらゆるものを消し去る破壊の津波だ。
光が過ぎ去ったあとには、両腕と両肩を丸ごと持っていかれた天使が、相変わらず空ろな表情のまま佇んでいた。
砲撃は天使の両肩を腕ごと吹き飛ばし、その爪あとが残る傷口の無残な断面から、鎖骨のようなものが飛び出している。
ぞるり。
そんな音が聞こえたような気がした。
石膏のような白く輝く美しい神像。
だが傷の断面から覗くのは生物の血液のような粘性の液体だった。
しかもその色はコールタールのようなどす黒い闇。
それが意思を持つアメーバのように傷口から飛び出し、肩と腕を形作り、たちどころに再生させていく。
まるで早回しの映像を見ているような現実感のない光景がそこにはあった。
そして天使の眼がこちらを見た。
光を宿さない真っ暗な瞳は、まるで魂を吸い込まれるような錯覚を呼び起こす。
だが、気圧されるな。
この程度で終わるなどとは最初から思っていなかったはずだ。
ゲマトリア数秘予測。
機体に取り込んだトロニウムエンジンの出力をディス・レヴのパワーに上乗せして、こちらの再生速度にブーストをかける。
もちろん代償がないわけではない。
普段以上の出力を暴走しないよう調整しなければいけないし、そのための高速演算と強力な負のエネルギーの制御負担はそのままクォヴレー自身にふりかかってくる。
脳が焼ききれそうになるほどの痛み。
細胞のひとつひとつが沸騰する感覚。
目や耳、鼻の穴から出血。
それらの代価と引き換えに、漆黒の銃神はたちどころにその傷を癒し再生していく。
そして天使が何事もなかったかのように再生を終了するのと同時、次の瞬間に再び戦闘は始まった。
ロケットのような加速でアストラナガンが天へと舞い上がる。
敵を真上から見下ろすポジションをとって、クォヴレーは愛機の再生の度合をチェック。
ガンスレイヴはまだ使用不能。だが装甲はかなり回復した。
そしてラァムショットガン、Z・Oサイズの再生が完了。
――充分だ!
腰から二本の砲身を引き抜き、一本の棒状に組み合わせる。
その棒の先端から液体金属ゾル・オリハルコニウムが曲線を描いて飛び出し、大鎌の刃を形作った。
悪魔の頭上、青い空に写るまがい物の太陽光が反射して、その刃は鈍く煌く。
黒い羽根、赤く光る双眸。
大鎌を振りかぶったその姿はまさしく死神だ。
天使の首を叩き落すべく、悪魔は超加速で急降下。
断頭台のギロチンとなって、その身ごと叩きつけるように必殺の一撃を浴びせるべく突貫する。
だがそこで今まで攻撃に反応すらしなかった天使が初めて動きを見せた。
「…………――ッ」
声にならぬ声。
わずかに動いた口から発せられたのは歌なのだろうか。
耳に届いたその声は世界の果てに響き渡るような、しかし心の奥に理屈にならないおぞましさが侵入していくような感覚をもたらした。
歯を食いしばり、歌声を振り切るようにしてクォヴレーは液体金属の大鎌を振り下ろす。
結果としてその刃は天使には届かなかった。
空気を切り裂く甲高い金属音。
火花のような衝撃波。
天使の脳天にその一撃が届く寸前、見えざる壁が高速で振り下ろされた大鎌を遮り、はね返したのだ。
「ぐううぅッ!!」
クォヴレーの操縦桿を握る手に力がこもる。
ふざけるな。
この程度で引き下がるとでも思うのか。
貴様はこの俺が倒す。
その邪魔な壁ごと叩き切ってやる!
「破を念じて……刃となれ!」
その言葉とともに大鎌が光を纏った。
ディス・レヴのエネルギーを研ぎ澄まし、Z・Oサイズに纏わせ、負の念動力を宿した刃となす。
その刃の長さは先ほどの二倍、いや三倍以上。
光り輝く大鎌と見えざる壁の拮抗。
二つのエネルギーの境界面がバチバチとブラズマの火花を散らす。
その音はますます大きく、火花はますます激しく、そして徐々に拮抗はクォヴレーの側に傾いていった。
「う――ぉお――おお――」
アストラナガンのコックピットの内部、クォヴレーの肩口から弾け飛ぶように血しぶきが舞った。
肉体の過負荷を承知で、先ほど機体の再生に使ったオーバーブーストをもう一度使ったのだ。
悪魔の黒い装甲があふれ出すエネルギーを纏って強烈な光を放った。
瞬間――、
「――おおおおぉぉぉぉおおおおおおぉぉおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
肺の空気すべてを搾り出す絶叫とともに、輝く刃は天使の脳天から顔面を真っ二つに切り裂いた。
そのまま機体ごと急降下。
刃はさらに喉から鎖骨の部分を切り開き、心臓を経由して左わき腹のさらに下部、足の付け根から斜め外側へと抜けていく。
二つに切り裂かれた白い天使から真っ黒な鮮血が噴き上がり、青空と太陽の輝きを汚した。
浴びせかけられる黒血を避けながら離脱するディス・アストラナガン。
再生しないかどうか確かめるために機体を翻し、そしてそのときクォヴレーは見てしまった。
天使の心臓部から滝のような鮮血とともに飛び出した、黒真珠のように滑らかに輝く彫像を。
「ら――ラミア……だと?」
それは一人の美しい女の姿をかたどっていた。
クォヴレーの一撃で切り裂かれたのか、腰から下はすでに砕けて存在していなかった。
何かから逃げようとするように、その身をよじり、
何かに傷つけられまいとするように、その両腕で自らの体を強く抱きしめ、
何かに絶望したかのように、その顔は苦悶に満ちていた。
そしてクォヴレーはラミアの末路を悟った。
ラミア・ラヴレスという名の人形は自我に目覚め、それでも報われぬ想いと知りながら、ユーゼスにその全てを文字通り捧げて忠誠を尽くした。
その結果がこれだった。
ユーゼスはラミアを生贄にしたのだ。
しかもただそうしただけではない。
どうやったのかまでは知らないが、彼女自身が悩み傷つき、ついに手に入れた彼女自身の想いすら踏みにじった。
そうでもなければ、あんな絶望に満ちた顔をするはずがない。
あれから一時間も経っていないというのに。
――これは私の意志!!そしてッ!!私の……望みだぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!
あの時に聞いたラミアの声は、あんなにも真っ直ぐな決意に満ちていた。
それを――、
「……答えろユーゼス」
二つに切り裂かれた天使像は黒血を撒き散らしながらも、いまだ重力に反逆し宙空に留まっていた。
まだ終わってはいない。
生きているのだ。あの男は。
「お前は宇宙の調停者となって銀河に調和をもたらすと……そう言っていたな」
ラミアだったモノの、その表情が全てを物語っていた。
たかがちっぽけな一個人が、夢に、欲望に忠実に従うことの恐ろしさの全てが。
「そのためならば何をやっても許されるのか。そのためにありとあらゆる全てを踏みにじって許されるのかッ!!」
そしてやがてラミアだったソレに大きく亀裂が走り、割れては砕け、そして空間に溶けるようにして消えていく。
その割れた黒い結晶は、それが消えていく様すらもクォヴレーの心を苛んでいく。
それはラミアの声で、クォヴレーの中でこう囁いている。
『……もしお前が私が消え行く様を見て……お前の中に何か拭い落とせない澱のようなものが残るとしたら……』
どうしようもなかったのかもしれない。
ラミアは自らの道を自分の意思で選び取った。
誰もそれを止める権利はなかった。
それはおそらく正しいのだろう。
『……それは全て……全てはお前の……無力のせいだ…………』
それでも彼女に、こんな結末を迎えてほしくはなかった。
ラミアの選択が自分の意思というのなら、助けたいと思うクォヴレーの意思も紛れもなく自分の意思。
ならばそれは等価値ではないのか?
なあ、ラミア――お前は俺だ。
俺もこの通りのザマだったんだ。
人間ではなく人形として生まれ、人形であることに、人間でないことに悩み抜いて。
時には道を外れて、それでも前に進み、答えを手にしたお前を俺は救いたかった。
それは間違いなのか?
俺とよく似たお前を、たとえ選んだ道が違っても、それでも救いたいと思ったことは間違いなのか!
どうか、答えてくれ…………!
『……己の無力を、思い知れ…………』
最後に残った首だけのラミアが嘲笑を浮かべた。
そしてそのまま、スローモーションのような刹那の瞬間の後、砕け、そして溶けるように消えていった。
最期の嘲笑、それはクォヴレーの中にあった後悔という感情が写し出した幻視だったのかもしれない。
ラミアの声はクォヴレー自身の心の声だったのかもしれない。
だがもうすでにクォヴレーにはどうでもいいことだった。
ラミアはもう二度と戻らない。
突きつけられた結果だけがクォヴレーの心を苛み続ける。
声なき絶望を噛みしめ続ける。
黒い血に塗れた邪悪な天使だけが、哀れな人形の哀しみも絶望も意に介さず、変わらず宙空に存在し続けていた。
※完結後に没ネタと前置きした上で投下されたもの
最終更新:2009年02月15日 05:34