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ポリグラフ



 一冊の花が風化していた。枯渇が死に似ていないはずがない。

 *

 白い砂浜がどこまでも続くように伸び去ってゆき、か細い波の音がさざめく。眩しさを感じて男は目を細め、遠い沖を臨んでいる。海岸の砂は柔く踝をぬるく埋めているのに男はふと寂しさを覚え、人の名を思い浮かべる。(君)、と声にならない声で表情を作って見せ、それから自分の発した言葉の親密さに益々、男は孤独だった。
 海岸線に平行に、彼は三歩歩く。砂に埋もれた一冊の手帳がうち捨てられて、浜風に頁を揺らしている。取り上げてみれば、そこには無数の名前が書かれている。君の名前もそこに書かれていた。君と呼ぶこと。名前は男にとって安堵をもたらしていると同時に深い苦しみを刻みもすることを男は承知していた。
 海は凪いでいて、そこに君の痛みを知り、男は深みのある痛みを固い決意で押し殺してゆく。水平線を睨んだ彼に驚き、海が少し揺らいだ。
 押しとどめようとする君の意志。落ち着きを装い男は踏み込んでいく。

 *

「魂によい土地に人はあるべきだ」
 アクティナスは言う。
「生者は葦原ノ国に、死者は黄泉ノ国に、ですか?」
「そうだ」
 問いながらマルセルは、アクティナスへ視線を向けるだけだ。

 *

「強い意志を持ちな。強く。もっと強く」

 *

 群れを作って泳ぐ色取り取りの小魚たちを幸恵の視線がゆっくりと追って行く。アーチ状になっている通路に青い照明が灯され、浮遊するような幻想の気配が漂っており、守屋は幸恵の冷たく繊細な指をとると幸恵は彼を見上げた。睫毛の長い彼女の瞳が灰色の光彩に深みを感じさせた。幸恵が腕を絡めてきた。守屋は彼女の為すがままにしてガラスの向こうを見る。二人の頭上を大型のエイが横切っていった。
「水族館なんて久しぶりね。前にきたのが、ええと、幼稚園児とか、小学生だとか、とにかく、昔すぎて」
 水の中を行く直線を抜けると左巻きの大きな螺旋の通路になった。円になって下っていく。右手に巨大な水槽が水族館の建物を貫くようにあり、同様に青く照らされたガラスの内側で、様々な美しい魚たちが上へ下へ泳ぎ回っている。
「でも良かっただろ?」
「そう、奇麗。少し暗いのも」
 二人で魚たちの泳ぐのを見つめながらゆっくりと螺旋回廊を下っていった。ガラスに移った幸恵の姿を守江は見つめていた。時折幸恵はガラスを隔てて見つめ返してくる。守屋が軽くほほえみ返すと、幸恵は少し絡めた腕の力を強くする。そうするたび二人に親密な時間を過ごしているのだと言うことが知らされ、二人は幸せだった。幸恵はあまり喋らなかった。言葉が必要ではないということを理解し、守屋も無言だった。水族館は人が少なく、音のない暗がりを二人は引っ付いて歩いた。
 螺旋回廊を降りきると、水槽の底と同じ高さの床で、そこから通路は平らになり、水槽には足の長い蟹や、ひげの長い海老など、不思議な生き物が増える。一周分の円周を回って、幸恵は立ち止まり、大水槽のガラスのそばで上の方を見た。
「大きい……どこが水面なのかわからないね。どんな気分で泳いでるのかな」
「魚が?」
「そう」
 熱帯の赤や黄色の小魚たちと、大型の鮫が同じ水槽で、泳いでいる。退屈に囲まれた爛熟のまどろみ。何とでも皮肉が言えそうだった。守屋は押しとどめる。
「どうだろうね、聞いてみなよ」
「私はこう、思うけど、笑わないでね……きっと気持ちいいの。水の中をふわりと浮き上がって、今度は海の底に降りて……あんな風に、飛ぶように泳ぐことが出来たら、いいなって思う」
 幸恵は言った。清らかな水の感覚が鱗ごしに感じられる、プールで泳いだこと、何時の頃か守屋にもわからない、滑る空間を垂直に登ってゆく魚たち。光源のない水中は奥行きを持てずに浮遊している。守屋は目をつむり想像するが、それが幸恵の考えていることと同じなのか自信が持てずに、曖昧に笑うことにする。
「うん、きっと……」
 幸恵が独り言のように繰り返すのを、守屋は聞く。それから守屋は手を離して、つなぎ止めるように指を絡める。不思議に思った幸恵が守屋を見ていることに気がつき、その少し腫れぼったいような、愛らしい瞳を守屋は見つめ直した。

 *

 あなたの演技は読めている。心の全て、それら全て、下らないよ。死ぬべきだよ。

 *

 上部の青い小窓に手をかざす。静脈走査という少し時代がかったセキュリティのドアは、ダナンをゲストとして登録した。
 ドアは静かに開いた。
 妙に奥行きのある部屋はレトロな玩具にあふれかえっている。赤茶けた骨董品の鉄道模型が所狭しと飾られ、そこかしこにブロックで作られた怪獣がある。それらが部屋の中でそれぞれの場所を持っており、暖色の統一感を醸し出しているのがダナンには不思議に思えた。古代のレシプロ戦闘機を所定の位置に戻して部屋の主はダナンに振り向く。
「はいどうもこんにちは。さてと、層間航路の方。ちょっと待って資料出すから」
 むやみに長い手で荒れ放題のデスクをかき分ける。あまり整理はなされていないのだろう、書類が溢れて散乱しているなかで、彼は住処にある全てのモノの位置を了解しているのか、見つけ出した。
「あー、ダナン・レトゴ・リーブラ、さん?」
 ダナンが頷くと、男は立ち上がってどこからか丸椅子を持ち出して勧めた。歩み寄ると彼は握手を求めてきた。時計の振り子のように長く奇妙な手。指は四本だった。手を握りながらダナンは男とよそ行きの笑顔を交わす。このようなことは何百としてきているだろうに、男は心から楽しそうに見える。かなりの老人のはずだが、若々しく、眼球の大きな顔は不自然だが、どこか魚のような、とぼけた愛嬌を持っている。
「第六層生理保全局所長のペパーズです。所長って肩書きだけれど、そんなにかしこまらなくていいよ。さっさと本題に入りましょ、層間航路の診断ね」
 ペパーズは書類にさっと目を通して、それからダナンの体を眺めた。書類とつきあわせて不備がないかどうかを見ているのだろうとダナンは推測した。
「人間用の輸送路なんてないから、君は貨物線に乗ってもらいますよ、と。身体面に負荷がかかるけど、ん、まあ、君なら大丈夫そうだね。血統的にもそんなに拡散はなさそうだし。衛生調査は問題ないよ。局長的には仕事が済んでいるから、別にかまわないと言えばかまわないけれど、就航目的の欄が空なのは、なんで?層間移動するのって珍しいよ?」
 一応ね、一応、事務だからと、ペパーズは笑うが、彼の長いキャリアは緊張の空気を作っていた。ダナンは気詰まりを感じながら答えた。
「知人に会いに行くんです。出来れば、そう、この目で」
「それはユリシーズなんぞではあったり出来ないの?<雲海>の方がずっと手軽だし、むしろ層間を旅するのはデメリットが多すぎる。官庁としてもあまり好ましくない。正直、あまり層間移動はお勧めしないよ、特別なことでないと」
「昔、彼女はあなたにあったそうです。博士に会いながら旅をし、第六層からどこかに行ってしまった」
 ペパーズは興味なく、そうか、と言った。少し悲しそうな目をして、瞼が薄く閉じられた。
「まあ、事務は終わったから、好きにすればいい。それでも、やめといた方が、君のためにも、いいんじゃあないかってね、年食った僕なんかは、思うよ」
 面談は終わりだ、ペパーズは言い、発着場まで見送るよと申し出た。ダナンは丁寧に断って、ドアを開け、部屋を出た。珪素で作られた廊下はつかみ所がなく、ともすればどこまでも落下していきそうに見える。

 *

 言葉を生きる人々が、言葉を殺す。言葉の幻想を一薙ぎにして、一頭の駿馬が草原を越えてゆく。

 *

「強い意志を持ちな。強く。もっと強く」

 *

 男は一面に青い水中を潜って行く。薄暗い海は色を変えず続いてゆくばかりで、上も下もないから、彼は君の残していった魚たちを見つけては通り過ぎる。子供らしい玩具の、作られては崩され、それでも鱗は水中で錐揉みに回転しながら、きらめくことをやめず、標識のように彼を導いてゆくが、あたりは不完全に闇に包まれ、どれほど来たのかもわからず、唯一に近い光のもとで男が安堵を感じる前に、そこに住むものの本来の速度で、魚たちは泳いで、見えなくなる。海に取り残される異邦性が、あたり一面を埋めている。
 確信は、あった。
 君がどこかの、途方もなく広い海の底で、ぼんやりとシャボンに遊ぶ情景が、男の脳裏にテレパスのような鋭利さで遠視される。遠視されている。
 海の広大さを突きつけられ、奥行きを取り戻せないまま、男は泳ぐ。君は永遠につかめないというだけでなく、表的に配列された手帳の向こうに都合のいいように作り出した幻想そのもので、行くべきひとつの寄り手を自分自身で捏造してしまっており、今見える君のところについても君を知ることがなく、つまり撞着している。深みのない/深みのある、水深を探るにしたがって彼の体は水圧に押されて縮こまる、寒い。
 男は既に知り尽くしていたから、君は永遠につかめないということも分かっていた。君にたどり着くこともまたないのだろうという虚無感と、君に見てもらいたいという浅ましさとどうしようもない幸福のない交ぜになった量塊に、男は不安に駆られ、君の名を呼びたいと思った。

 *

 花の匂いを感じて振り向く。淡く黄色にちりばめられた花が、低い広葉樹に咲いていた。
塀の向こうだった。

 *

 遠くを泳ぐ、シホが振り向いた。
 振り向くはずがない彼女の唇が、軽く微笑を湛えているようにも思えて、マシューは落ち着かない。

 *

 階層的に連なる遺棄の群類が海底に見える。際限なく続くかに見えた幾何の頂は、幾度か地平線を越えるうち、緊密さを解きながら次第に減衰していく。そしていつしかなだらかな高原へと変わり、霧散した断片のかけらはそこで寄り集まっていった。ゴルトシュタインが空間を一別できる視座で海底を飛行する。
「いったい誰がこんな空間を作ったんだろうな、すばらしい頭脳だ」
 傍らを飛ぶアヴェナリウスはゴルトシュタインのため息を聞き取り、頷いた。

 宙に浮かぶ衛星群の中にテクストが埋め込まれている。
 簡易文書的に規定されるユリシーズ空間、通称<雲海>では誰でも<空間>を持つことができる。古い日記帳に童話的空想を広げて書き連ねることが許されるように、それは書かれることによって生成され、読まれることで維持される。しかしこれだけ凝りに凝った世界を広げることを、人はあまりしない。
「この空間は数年前に遺棄されたばかりらしい。遺棄というよりはむしろ完成されたといった方がよいかもしれんな、ログを見てみろ」
 アヴェナリウスは白い指で、空に長方形の窓を描いた。空間を切り取ってウインドゥが現れる。現実空間でわずか数秒の間に作られたことが、刻々と刻まれていく経過時間によって知られる。履歴をスクロール。作者は気の遠くなるようなクロック数をフルに使い、土地を瞬く間に作り上げていた。
 アヴェナリウスとゴルトシュタインは、ユリシーズに作られた知能だった。彼らは文書で織られた<海>の中を回遊し、膨大な土地に行き来する旅人である。それゆえこのような土地も数限りなく見てきているのだった。旅愁を感じることも、あまりない。
「といってもこれが人の手によって作られたというのなら、それはそれで驚きではあるがね。人の世界はもっと茫洋としているものだから」
 見れば見るほどに世界は美しかった。しかし血を持たないゴルトシュタインはその無機的な静謐をその人がどのように秩序付けたか、無闇な詮索/検索をする。彼らの長い生に記録された億兆の風景は、透徹の世界にも類似を見出してゆく。それが世界に対して哲学的にどんな意味を持つか、彼らにはプログラムされなかった。ゴルトシュタインは沈思する。
「ゴルトシュタイン、考えるのはやめましょう、人が作ったものを理解することはできない」
 広げるだけ広げられた風景に、彼らは降り立ち、することを見失って立ち尽くす。一面に花が咲いていた。その花は山脈と同じ青い色をした、ガラス質の十二本の細い花びらは正確な角度で太陽を目指し、ゆったりと風に揺られている。その花をアヴェナリウスは美しいと表現した。人から生まれた人は、人のものを借り受けることができないのだろうか?アヴェナリウスはゴルトシュタインに背を向けて、息を吸い込むと、時速二百キロで飛び立った。海面を見上げると、星が見えている。彼女の軌跡を正確にしながら、ゴルトシュタインもまた、飛び去ってゆく。

 *

「再三言うようだけれど、意味あるの?」プラットホームでペパーズは問わずにはいられなかった。イントネーションを誤って、問いに聞こえない。

 *

 窓の向こうを走ってゆく青年をもどかしく懐かしい気持ちでクラモトは見ていた。歓楽街の裏通りを駆け抜けてゆく青年は、少しすると交差点を右に曲がって見えなくなる。
「すげえすげえ。文学青年が夜の街を横切っていくよ。見た?」
「見た。だせぇ」
 オオタは二本目のタバコに火をつけて言った。雀卓を囲むジェファーズとダットリーも、シニカルに唇を歪めて見せた。ここは雀荘のくせに妙に気取ったところがあって、街中のバーのように暗い照明をともしている。そのせいでしばしば普通の飲食店のようにも思われて、毎日数人はこの店に来るのだが、ドアから直線的に続くカウンターの奥で我々がジャラジャラとやっているのを見ては、退散する。通常のバーじみたことも、やっていない事はないが。
 週末を四人は雀荘で過ごすことにしている。彼らは別々の仕事を持ち、ぽつぽつと集まって、退屈な牌の遊びで週末を潰す。賭けたり賭けなかったりのじゃれあいにゆっくりと腐敗してゆくものを感じ取りながら、楽しみを捏造している。
「なかよしこよしってわけさ」
 ダットリーは言っていた。最初は彼らもここを何がしかの飲み屋と勘違いして入ってきた口だった。けれど四人は取り合わせの良くないジャンク的な店を好んで、再び来た。類は友を呼ぶ。類似の、薄暗い楽しみを見つけて、彼らは席についている。
「ハハ、何じゃありゃあ。ふさわしいといえばふさわしいけれど」
 オオタの言葉を引き継いでクラモトは言った。
「ダサいことに変わりないんだよ、どんな理由があろうとね。見てくれがすべてなんだろ?」
 そうやって四人は笑った。
「若さってなんだ?振り向かないことさ」
 四人の笑い方は似てはいるが、異なる。ジェファーズが、自分の言った冗談がどこかの引用であることを悪趣味にちらつかせて、彼を笑う。ダットリーは嘲笑とも憐憫とも取れる複雑な表情だった。
「ああ馬鹿だねぇ、本格的に馬鹿だねぇ」
 オオタは口の端にタバコを咥えなおす。
「本人だって気づいているんだろ、いくら馬鹿でも。そうじゃなかったらあんなみっともないことできねーって」
「覚悟なんだぜ。ぜぜぜ。腹に決めてやるんだ、一息に」
 クラモトは、表情に悩みながら無機質に笑って見せ、カウンタに向かった。ハイネケンを受け取って一気に飲み干す。酩酊の波が胸でさざめき、疲れを感じて顔をなでる。彼にもっとも似ているのは自分かもしれないな、とクラモトは思い、再びそれを打ち消す。

 *

「物語はもはや読み込めない。読めるだけだ。網膜を滑ってゆく言葉は、彼らがそれに没入できないことを知っていて、足下を見ながらからかって、去るのだった」

 *

 海から吹く風にけぶり、傷ついた肉体にも容赦なく黄砂をつもらせてゆく。倒れた彼の目が地平線を捉える。刺繍の美しい赤と金の色をした戦団の旗は、砂嵐に紛れて消えていた。
 時間はないし、これからは尚のこと存在しない。
 肩口にかけて大きな刀傷。血が止まらない。さらに脇腹と左肩、それから両足にも数本鉄の矢が突き立っている。せめてと矢を抜こうとしたカールは、自分の肉体にいまだ血が流れていることを悟って、諦めた。鏃には返しがついており、深々と突き刺さったそれを無理に取り去ろうとすれば、肌を破って、出血は益々ひどくなるだろう。痛すぎてよくわからない。少し眠りたい。あと何分だろう。自分の命運が手に取るようにわかった。打撃を受けた頭が痛み、そうでなくても失血でぐらぐらとしているのを感じながら、それでもカールはひどく平静な気分だった。打ちひしがれるというのは、こういうことなのかもしれない。痛みで精神を挫かれてしまったからか。自分の思考を見る自分が、自分の気持ちを悲しいほどよく理解していた。
 戦線に裂かれたカールとエイダ。海の向こうへ消えた。よくある話だ。よくある話だからこそ、信用に足るのだと信じた。悲劇的な主人公たちに、カールはなってみたかった。だからこそこうなる運命だったのだろうか。
 身の丈に合わなかったのか。
「そういうことじゃあ……ないんだよ……エイダ……」
 カールは思う。
 今際の際となって自分が平静でいることが好ましかった。悲喜劇、それらの類。よくある話であることも、何から何まで承知だったから、お望み通りだった。英雄的にも思える激情は、身の丈に合わなかったのではなく、自分の身の丈に合っていた。少なくとも彼はそう思うことにした。英雄の死も、その物語には描かれているだろう。悲劇は演じられている最中だった。
 自分の激情があっけなく霧散してしまったことを受け入れる。役目を終えたとばかりにそれは手のひらを返してみせた。自分の感情一つ、自分のものでは最初からなかったのがわかった。悲しくないし、悲しい。二つに引き裂かれたことも今はどうでもいい。すべからく、いずれ死ぬだろう。
 真冬の芯から来る凍えを感じた。彼はもう身を震わすこともなかった。それほど命は長くないことを彼は知る。体を転がして彼は空を見上げる。こうしてみればどこかの海の底に寝ころんで星を背に負うようにも、感じられた。指先は冷たく震えているのに、目の奥は熱くぼうとしている。
 どこからか心地よい香りが感じられ、それが死の幻想が作る彼岸の花の香であることもすべて、彼は知っていた。匂いを、どうか君に結びつける。

 *

 言葉は子供だましだった。

 *

 水面は遠く頭上にあり、水の分子に弾かれて減衰した光は、彼のいるところからほとんど感じられなかった。深い青みは、彩度を失っており、男はそれを、ありきたりに闇と表現すべきか迷う。
 男が降り立つと、海底に溜まっていた泥が足下から浮き上がり、ゆっくりと沈んでいった。君がそこにいたのだろうことが、君の残した残骸から知れる。相応しい全てを沈殿させて海はある。
 男はそこで手帳を開き、頁の一枚一枚を破いた。バラバラになった紙片を、君の捏ねた粘土の上に乗せて歩いた。海底の泥は人の形をしており、男もあれば女もいた。君が自分に模して土塊を造ったものだったから、それらは全く別の姿形を取りながら、見る人が見れば君の断片にも見えた。おそらく君もそうだったと、彼は類推する。いくらかは砕かれていた。
 あまりにも像は多かった。広大な海底は、見渡す限り人の残像が漂っている。それらはもはや人ではなく、人の形をしていたが、かつて人だった物のようにも思われた。その意味で、それは墓に似ていた。 群像の墓の中に名ばかりが刻まれていた。供犠によって。

 そのうち彼は一つの像の前で立ち止まった。自分によく似ていたので、自分の名前を書いた。

 *

 花の香りは寒村まで届かなかった。雑草が道を覆うようにして群れ上がり、青臭い匂いがしていたから。西日は雲に隠れ、淡く影のない空気が広がり、ヘイズの影はおぼろげだった。道の先に、彼の生まれの村がある。
 ヘルダが見せてくれた写真の風景と、よく似ていた。

 道は舗装が十分ではなかった。そのため彼が乗るバイクは転倒に備えて徐行を余儀なくされ、遅々として進まなかった。進んでいるのが時間だけのように、微かな苛つきと憂鬱を感じる。蟻のようにのろのろと道を辿らされる彼に、横からの強い風が吹き付けた。灌木の枝がなびき、雲が空の表面で渦巻いている。
 ヘルダのことを考えようとしてやめた。そんなことを考えても何の意味もないことはわかっていた。それを訴えることが不可能であることも、前もって知らされていた。それを考えることは楽しい。だがしかしそれは空想であるというだけの理由で、厳然たる態度で、却下されなければならない。初めから意味がないのだ。根源を持たないから、行間を漂うことを許されている。雲もそうだった。漠々とした質量だけ。生まれずに存在すること。何時からあったのか、初めからあったのか、初めからあったにしては力なく、生まれたにしては無機質で、意味がなく、意味は剥奪されている。社会のせいか?ヘイズがヘイズの脳裏で模索することも、どこかで生まれ、生まれ続け、人の世に組み敷かれて匿名化され、そのたびごとに、描写されてきた。使われ、引用され、沈殿し、姿を変えない歴史は繰り返す、けれどもその警句たちは、彼の前で力なく横たわって、言葉にするのも今更だった。伸びきった繊維のように活力を失い、失うことが運命とされ、最初から墓場を埋める死者として表れ、私生児として生まれた彼らは、血統を証明できない。
 日が傾いてゆくにつれて、周りの風景は粘度を保ったまま移り変わった。彼の乗る二輪が駆動しているのか、時間が彼を動かしているのか、自動的に物事が進んでいるのを感じ、彼は面白がった。
 流れ去る風景は、荒れ地の中に、耕された農地も混ざり始める。
 ヘルダの写真を額縁として、自分の故郷に結びつけようとしたのが今ヘイズにははばかられた。ヘイズとヘルダは都市から疎遠な畦道のこの村を出身としていた。しかしながらそれも、顔のある、生まれの証明にはならない。起源に遡ることを、どこかで止めなければならない。どこまで遡っても何もないだろうことを、彼らは静まりかえった街で理解していた。そう気がついたからこそ彼らは孤独に疲弊した。求めては交わるだけだった。そこに新たなものが生まれるわけでもない。一つではなく、どこまでいっても二つの匿名があるだけだった。疲れてはヘルダは気だるく、経済に張られた弦に触れてみせ、引き延ばして弾いては眺め、写真を撮るのが常だった。どこから切り取っても、その写真は同じ憂鬱をまとっていた。無機質にかき集められた集合論について、彼女はフラクタルなどと形容を付け加えることさえもなかった。

 西日が完全に没した頃、ヘイズは村にたどり着いた。村を包囲する柵。時代に取り残された遺物だった。暗い影に溶け込んで、荒れた道を彼のバイクが揺れていく。
 門番が立っていた。ヘイズが手を挙げて合図すると、門番は勝手口へ消えた。
「このアーチを潜る(くぐる)虚無だけが……」
 閂の外される音が、闇の中に沈んでゆく。沈んでゆく。沈んでゆく。

 *

 死者はその魂を海へ帰した。水平線を燃やして、篝火が焚かれる。

 *

 ウラジミールは紙面の上で展開される物語を読んだ。しかし読み進むに従って方々に散逸する物語の流れから、何を得ようと言うのか。ハイネケン女史から渡された文書はウラジミールを悩ます。彼女の友人が書いた小説だった。査読と、ちょっとした感想を求められている。
 こんな物語だ。主人公は男で、誰か、恋人らしき人を探しているのだが、男は一人ではなく複数だった。別々の名前をもち、自分の持ち場が来ればそれぞれに勝手な話題が展開してゆく。彼らは共通して恋人を求めている。しかし男が別々の時間と空間で求める人、つまり「君」は、異なっている。おそらく、おそらくという所がまさに奇怪な点なのだが、彼女は名前が異なっているのだ。
 登場人物の名前をまとめようと彼は手帳を開いた。作中に登場した人物の名前を書いてみる。名前を書くことは出来た。しかしそれらはいたずらに行を埋めるだけだ。
 読めば読むほど彼らは繋がっていかない。ここで起こっていることが理解できない。彼らが何をしようとしているのか、朧気な輪郭だけが分かる。しかしそれらははっきりとした個人を持とうとしない。いや持とうとはしているのだ。彼らが別々の人間であるのは、エピソードがそれぞれ区切られ、アスタリスクによって分割されていることからも類推できる。しかし、それらは一つの文脈によって人物と文脈が相互に反発し合っている。あるいは、人物が文脈を拒否している。しかし、彼らは独立しては存在しておらず、また存在できない。相互に張り巡らされた文脈に依存している彼らは物語っているからだ。彼らは、冒頭におかれた断章的な句から物語を借用したがっており、固有名詞を飛躍して物語に恋をするが、それが書かれたものであるが故に初めから分断されている。引き裂かれている。それは語彙においても同じことだった。モチーフは極めて象徴的に扱われており、それらによって筆者はこの文章群を纏め上げようと意図している。彼らは「君」を物語自体から引き出してきて、それを各々の名前にはめ込んでいく。それこそが彼らを引き裂いていた。

 *

 青とオレンジが交互に並んでベンチに腰掛け、守屋と幸恵はイルカのショーを見た。高く釣られた紅白のボールをしなやかな尾で叩いて、何度も何度も、イルカは水色のプールに飛び込んでいった。しぶきが風を受けてきらめいた。幸恵は頬にかかった髪の毛に、左手で触れた。

 *

 泉野は、出棺の折、高橋を連れ出した。似合わない礼服を着た高橋は、恋人の葬儀だというのに、妙に半笑いで立ちつくしていた。泉野は、高橋を数度平手打ちにした。そうしないと気が済まなかったからだ。泉野が手を引いて歩き出すと、高橋は驚いた顔をした。気にくわなかった泉野は彼の頬をもう三度張った。

 葬儀場の近くは、悲しく寂れていた。商店街の喫茶店に腰を落ち着けても高橋はぼんやりとしていた。一言も発さないまま、ウエイターが注文を取りに来た。煩わしく、ホットコーヒーを二つ頼んだ。ウエイターが注文を繰り返すのを聞き流し、泉野は話し始めることにした。あまり気は乗らなかった。
「なんで来たの?」
「深海の、葬式だろ?……来ないわけにはいかない」
「来るなって言われたでしょう?」
「そう言われた。けれど来たかったんだ」
「誰に言われたの。深海からじゃなかったかしら?」
「もうだいたい君の知ってるとおりだよ……答えたくない」
 高橋は項垂れている。深海は亡くなったのだ。その事実が高橋の頭上に重くのしかかっているのが、泉野にも知れた。
「なあ、深海はこれからどこに行くんだ。死んだ後だ、深海はどこへ行く」
 もう一度張り倒してやろうか……泉野はグラスに入った水に口づけた。店員が二つのカップを持ってきていた。
「高橋、あんたもう深海のことは諦めな、深海は死んだ。それだけよ」
 彼はもうだめだ。深海が死んだ今となっても、彼はまだ自分の作り上げた言葉に酔っている。それは心地がいいだろうか?甘く憂鬱で、気だるげな宝石とされた深海のことを、泉野は思わずにいられない。そんなものを高橋の心に放置するわけにはいかない。それは高橋のためでもあるし、深海のためでもある。前者に対し不愉快で、後者に対して惜別を、泉野は理解する。
「だめ。君には無理だね」
 高橋が言った。彼は目を見開く。それは、疲れ果てた人が、まさに精神力によって動かされている目だった。彼の場合、その精神は深海の人型と混濁した渦を成していた。彼のものではない。深海を返せ。
「じゃあ泉野、お前なら諦められるのかよ!深海がやせ細っていくの、見ただろう!不気味に白いベットの上で!取り返しがつかないんだぞ!もう深海に触れることは出来ないんだ!そんなお前……」
 激昂も目障りだった。泉野は、彼を、漫然と眺めた。遠くから、第三者の目によって、彼に共感することもなく、眺めているような気分。
「ちょっと黙りなさい。席に着け。コーヒーを飲みなさい。それから高橋。何度も言うけれど、深海は死んだんだよ」
 こちらを睨みながら高橋はマグを煽った。睨まれても疲れるだけだ。
「深海が亡くなったのは、悲しいよ。それはそう。友達が死んで悲しくないやつなんていないからね。でも、深海は死んだの。これは絶対ね、絶対の事実。高橋、やせ細った深海の目を見たでしょう?深海がこれから死ぬんだってこと、知ってたでしょう?それから高橋はどうしてたの?何をしたの?」
 高橋は言葉に窮して黙った。別に高橋が喋らなくても、泉野は深海に聞いて知っていた。彼は深海に嘘を並べるだけだった。病院の狭い部屋から動けない深海に、遠い異国の青い海を話すのは、残酷ではないのか。千羽鶴を折って持ってくるのは、残酷ではないのか。深海を勇気づけようと、きっと治ると彼は嘘をついた。それらは彼が捏造した深海の幻像に語りかける、くだらない真似ではなかったろうか。深海は自分の幻像をでっち上げてしまうしかなかった高橋を、悲しんだ。高橋が本気であるだけ、深海は高橋を疎遠にした。それから深海は泉野に、高橋の無知を告げた。きっと彼は駄目になる。そんなものを残されては死ねない。自分の体はこんなにも枯れてゆくのに。
 高橋が何を言おうと、何をしようと、深海は認ることのできない時間だった。
「俺は死んでも深海を想うよ、ずっと」
「君には無理よ。そんなことを言うもの。自分の言葉に酔ってるだけでしょう。深海を苦しめたのは自分だと知りなさい。深海が死にきれないのは君のせいだと知りなさい」
「深海は生きているんだ。俺の心の中で……」
 ……。
「高橋。下らないこと言ってないで、帰って着替えて風呂に入って眠りな」
 呆然とする彼を泉野は平手打ちにした。深海は死んでいる。死んだ後も深海に付きまとわないで。深海の魂を、深海に返しな。そんなことを言うのも、ひどく今更だった。そこで泉野は高橋の頬をもう一度平手打ちにし、彼を残して喫茶店を出た。雲が出てきた。雨が降るだろう。そろそろ彼女の骨も焼かれただろうか。友達の最期を思ってみる。悲しい気分だった。

 *

「単純に人間の姿をしているだけなんて、意味がないんだぜ。馬鹿でも知ってたか?」

 *

 目抜き通りに面したホテルの一室だった。一組の男女が文章から引用され、そこに場所を得る。フネスは役割が与えられたことを知った。特別だな、名前というものは。
「さて、僕らは引き出されてから、特別な役割を与えられていることを知っているけれども、一応君には言葉に出してもらおうか。エルザ。」
 寝台に寝そべった女は、雨の街に灯る電灯を見ていた。鏡の前でネクタイをほどくフネスに振り返ることなく彼女は答える。
「引用によって物語を紡ぐこと、それがどのような齟齬を引き起こすか、表すこと。低次元な試みだこと」
 二人は別々の書物から、引用されてきた。虚構によって存在する。望まれる、むしろ臨まれることによって。彼らに故郷がある。そして故郷を明示するものは名前であるだろう。生まれたときに付けられた符丁が存在を言葉によって固着させる。けれども名前が名前であるという理由、書き下された言葉は引用されうるという理念に、乗っ取られ、それでも、二人は生まれを反古にして再び生み出されていくだろう。子が親になる。血統を植物のようにばらまいてゆく。
「ひたすらに物語を追うことが、彼がどこかから来たものかを錯乱させる。彼女はいない。君はいない。彼女には名前を、与えられない。それ故に彼は混乱するわけだ。彼女に名前を与えれば、そこに物語は没入をしない。物語は波のように表面を走っていき、彼らを捉えることはもはやないだろう。それを物語として理解することが出来なくなるのは、それが引用に酔って造られている、捏造されているということを隠蔽していくことになる。それを彼らは拒み、またそれが彼らの行動を独自なものであるということの証明を、偽装していく。見てみろ、散々に罵倒されているくせに、彼らは泳ぐことを止めないよ。ここは陸地ではないし、前もって海だった」
 フネスとエルザは、一晩限りの一室を考えなかった。名前に引きずられて、次はどこへ行くのかだけが気がかりだった。仕事を済ませたい。エルザは手帳を取り出し、示されている名前たちに、記号を付与していく。切り取ったと錯覚するだけの物語は表に似ている。羅列されている為に、自分たちが借用可能であると勘違いされた。借用されるということに彼らの軽蔑を感じ、私たちになぞらえるしかなかった彼らの複雑を哀しむ。手帳に描かれた経路は、彼らを繋ぎすぎ、絡まったまま海中で溺死していた。
「僕らを引用してきたことからしても、それが不可能だってことを証明しているのに、なぜ筆者がそれをしなかったか。こんなものは嘘っぱちだから。君らが物語をしているということが、物語に酔っていて、嘘っぱちだからさ。どんなものを持ってきても、それが何かを、現実に呼応する何かを持っているといった表明の方法論が、不可能になっている。書かれた時点でね。君らは駄目だよ。書を捨てて、街に出ろ」

 *

 新興宗教に、入会するらしい。いい加減なことせずに少し早く寝ろよ。

 *

 彫像の目抜き通りを左へ曲がった。男は君の残した残骸の中で、君の形をした、塑像を見つけた。君ではないことを男はよく知っていた。像は海流に削られて表情を失っていた。それが君だったのか確認する手段は、男の、都合のいい幻想だけだった。
 別に誰でも良かったんだろう。
 君だと確信している像の前で自嘲する、ふりをする。君が良かったとわめく本心を留意する。どちらをするにしても愚かなことだった。下らないことには変わりなかった。裏切りによってしか自分の考えていることを言及できない。気味が悪いかった。首を左右に強く振った。
 男はそうであったように、努めて無機質に、手帳の頁を破る。その頁が初めからなかったかのように、手帳は痕跡も残さなかった。放ってやる。紙片は泥の上に乗り、泡のように消えた。

 それから男も泳いで行った。君からは次第に見えなくなる。
 君の残骸がいつまでも、深い海底に残されていく。

 *

 花は三日で枯れた。
最終更新:2011年10月24日 19:54
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