Note 1 (MGM 4)
ゲッシュを刻む理由も忘れてしまった。長いこと文字を刻み続けたせいで、彼の存在様式は変容し、今やそれは言語の空間を物理的に泳ぐ一連の魚影と、化しているのだ。彼が言葉を書き付ける。彼が空間に文様を描く。書かれた文字が書かれたと言うだけの事実性でそこの事実に居続けなければならない理由はもうない。言葉はひどく青かったし、その時々に振り向いてみれば、それは曲率を変えながら虹色に光を跳ね返すのだった。「わたし」と「わたしという心」を結びつける。私は心を持つ。冠詞はシャボンの泡のように明滅する名詞の塊を繋げている。
夢見に見たのは幾何学的立体だった。向精神薬でも飲んだかのような酩酊の中では、直線も曲線もどこまでも続いてゆく。私の一存でとりとめをつけられようはずがない。単純きわまりない立体がこんなにも魅了するものだとは、今の今まで、それはもうはるか昔のこととなるのだが、そのときまで、思わなかった。その塊は量塊(エイドス)を超えて存在する理念を含む。形(エイドス)を思考すること。彼はそこで目覚めた。それから休むことなく数十年を、彼は文字を書いて過ごす。つまりは文字を書いてきたのだ。あらゆる意味は意味を成さない。成す必要もなかった。平面の上で踊る線分だけが彼を魅了していたから。あらゆる文字をその手で書いた。母国語から、ローマン諸国語を渡り歩き、ゲルマン語圏、スラブ圏、エジプト、ギリシャ、マヤ・インカ、遙か東の国の言葉。アルファベットのたわいさといったらない。そもそも一つでは意味がない絵だったから。そのぶん異国の言葉は美しく、堅牢だったともいえるけれど、それも数度きり。言葉に魔力があるというのならば、いにしえのことば、魔術を習う人のうたをしても、彼は殺すだろう。数千を優に超える彼の猛烈なライティングに耐えうる言葉などはない。言葉ははかなく砕け、意味を脱ぎ去って、軽やかに飛び移る。言葉たるものを書き表すことには、言葉では足らず、言葉にならない言葉は、文様へ炸裂して、紙の上で尽くされる、二重の層を見せた隙間を縫うように、言葉と意味と音は崩れ去り、腰砕け、遺ったのは記号という文字らしき何か。文字の実在が宙に浮き始めたときから、彼がインクを落とすものは紙だけにとどまらず、羽毛の抜けた筆も必要ではなくなり、あらゆる表面は文字を含ませる。文字を書き付けることならば、人の心にだろうが書き付けることが可能となり、手書きはタイプライター・ワークへと移り変わるのに時間はかからない。書斎は頁で埋め尽くされ、書かれないものはなく、文字は氾濫し、裸の文字はうねるように蛇行し、渦を巻く濁流となり彼の眼前を轟々としぶいてゆく。K-O-R-O-R-K-K-O-R-O-R-K-K-O-R-O-R-K……際限なく文字列が伸びてゆく。書斎中に飛び散る。タイプライターを叩く音がひどくリズミカルに聞こえだし、彼は操られる。彼方で音を発するのは彼の口かタイプライターか。「コー」、「ロー」、「クー」、「コー」、「ロー」、「クー」……「コローク!」「コローク!」……彼は/タイプライターは、絶叫する。ひたすらに並ぶ三種の文字の列からかすかに規則的な文字の連なりを発見した音たちが諸手を挙げる。思いがけない隣人の連帯に喜び合い、掲げた両手を脇へ広げながら指先を絡め、音たちは手をつないでいる。愛にも似た誠実の連鎖。音が音として一人で居ることをやめるなら、言葉たちはその自動的な出自を見るだろう。二十六個の別種のシンボルは遅れを取り戻すようにそれぞれに結びつき始めた。新たな言葉が生まれていく。その言葉たちの繁殖は闇雲に回転する。気の遠くなるように膨大で、ほとんどが意味にあぶれたスキャットが、五線譜を際限なく続け、ダバダ、ドゥビ、侵犯し、ドゥー、リッタ、リララ、生き生きと噴出して、ラリタ、ヌーパ、ナム。とりつく島もない、ひたすらな響きの雨で書斎は浸水し、リズムを発する。音楽的な光が海面から差し込むのが、彼には見えた。かれはひとかきで、海を泳ぎ、去る。
Note 2 (MGM 5)
まず1つの林檎を持ってきて、それからこれを「1つの林檎である」と表現することを与える。「1」という表現について、その記号と指し示す物の対応関係が偶然的で、恣意的であるとも言えることは明らかである。この林檎の個体、他とは切り離された纏まりのある赤いものを名指すに、例えば日本語ならば一という事ができ、さらに英語ならばoneという事が出来る。これら二つの言語が同じ物を指しており、また我々は何語で話しても同等の資格を持つ以上、各人がどの言語を話しているかは偶然的であり、またそれによって林檎の個体を名指す名称も偶然であることは当然である。それを踏まえた上で、次にこの「1つの林檎」の横に、新たな林檎、つまりもう「1つの林檎」を持ってくるとき、この林檎の並びについて「2つの林檎」と名指すことは、おそらく、必然的に構成される。これは言語が他の言語でも作られうるという事とは全く異なる。1つの言語の中で「1つの林檎」からそれが並んだ物を「2つの林檎」と呼ぶことは必然的に構成される。1+1=2という数式を考えるのは、必然である。1+1=2という数式と、2つの林檎の間には、必然的な対応関係があるといってよい。ただし先ほどと同様に、別の言語で表現が出来るということを無視するものではなく、1+1=2という式は、一足す一は二、などと表現できることは当然であり、これがある1つの言語を使用して表現されるということは依然として偶然的である。しかし、原理的に考えて、1+1=2という数学的な関係が存在しないということを示す物ではあり得ない。その等式は言語が成立するならば、どの言語でも成立しうる事柄であり、最初の「1」を表現として想像したそのとき、この等式は来るべく運命づけられる。1+1=2は、数学的に存在する。
次に、1+1=2という表現が可能になったことで、1+2=3となるような新しい数を構成することは難しくはない。むしろそれは必然的に行われる。まず1+1=2という数式が表現されたとき、次の数式はその数式にあらかじめ表現され得るように構成されている。このようにN、自然数を構成することは容易である。すなわち自然数であるようなnについて、m=n+1を満たす数mも新たに自然数とすることを考えればよい。また-(マイナス)という記号を導入して、m-1=nというようになる数式を考えてもよい。最初にあった数式が含んでいる等号を満たすような数を求める演算を考えるならば(すなわち1+□=2のような)この演算は導出されるが、最初の数式を考えるならば、(あるいは書き下すならば)この数式を得る事が出来るだろう。アルキメデスの如く砂に書けばそれは盤石である。書いた物が即ち消され得る物であるならば、この数式は導出される。これは思考の内にある数ではあり得ない。数式を書き下すことは、数字を現実へ定礎する物であると同時に、消され得る物であることを理解するものである。ならばこの種の新しい演算は、数式を、「書き下す」事によって導出される。
同様にして1+1=2と2+2=4の2つの等式から新たに積の表現を与えることは可能である。1*2=2。2*2=4。しかしこれが書かれ続けるのならば、逆算する事も同様に考えられなければならない。すると、この等式では書き表せない数字が発生してくる。即ち、□*2=3であるような数である。我々が適当に解けばこの解は3/2である事が知られるが、この数は自然数の範疇からは外れている。この演算は不当であろうか?まず、数について、「奇数を2で割ることは出来ない」という風な規則を作っておくことは確かに出来る。しかしこの場合奇数と偶数の式に対する立場、資格は大きく異なってくる。偶数が2で割れて奇数は2で割れないということを、不当とする立場は存在する。割れてもよいではないか、と考えたくなるのは、式が記述されるからである。記述された数式は圧倒的に代入可能であるように感じられる。ここで奇数と偶数が相互に代入が出来ないというのは、数式の存在形式に反している。そこで奇数と偶数を再び可換であるということにするために、新たに数を作ることが正当化される。このように有理数は登場した。同様に代数的な式を考えた場合、無理数や、複素数を考えることは容認される。それは書かれている数字を分裂症に陥らせないがための克服である。
一方で形式を定めるために公理という一連の操作が用いられる。このことは数字の存在というものが、はじめから現実とは全く別のところからやってきたように感じさせる。確かにこのように天下り的に公理を与えるとするならばこれは現実にそぐわないが、しかし実際はそうではないだろう。数字の存在に適応するように公理という系が構築されているのを我々はそこかしこに見る。ある数を書き、しかる後に、これを和算差算に代入可能な数であると意図するならば、ある数の存在は数学的に存在づけられているのである。そこに新たに公理による数の定義を付け加えるとき、(それは上のような1を自然数とし、さらにm=n+1となるような数mもまた自然数であるとするような抽象度の高い操作の集積であるだろうが)、その公理の念頭には先に意図された数を公理に含めるという読みが働いている。公理は後からきて存在論をより強固にするものであり、存在に先立って存在しない。
我々は書かれた物に対して1つの実在論を採ることになるだろう。数字は常に数式の形で書かれ、そこに組み込まれている要素として表現されるが、そこで1つの数字は単独に存在し、また別の数字がその数式に入り込むことを認める。数字が表現されることと、数字が実在として存在することの間には、因果関係がある。同時に書かれることと、それが要素の代替を可能にすることは連続的であり、このことは新たな数と数の関係を予示させるのである。予示に従って我々は存在を展開することが出来るのである。
Note 3 (MGM 6)
再び表れた立方体に我らの精神は摩耗する。
立方体が街に現れたのは過去に十数回を数えている。発見はいずれも朝方であった。薄明かりの中に溶けていたものが、日差しを浴びることによって浮き上がるように、立方体は現れた。立方体は、真に立方体である。一二個ある辺の長さは全て正確に一メートル。光が真空中で1/299792458秒で進む距離である。質量は不明。持ち上げることができないからだ。それどころか、一度存在が確認されると、その場所から微動だにしない。押しても引いてもそれに見合った正確さで反作用を返す。秤にかけることはできず、また慣性による測定も無意味である。また正確に剛体である。いかなる圧力にも立方体は歪みを起こさない。このことにより、圧力分布を考慮することも不可能である。重力に対して水平であり、正確に方位を定めて発生している。側面の四つの面から垂線を引くとすれば、その延長線は正確に地球上の経線緯線に対応している。色は漆黒であり、その表面は滑らかな平面であると考えられる。光は反射されない。それゆえに非破壊測定法で主流な反射光を利用した測定も無意味となる。
立方体が出現するのは場所を問わない。地面に接地することもあれば、空中で浮遊していることもある。出現するときはそこに異物があろうがなかろうがお構いなしに出現する。鉄筋コンクリートの建物に突き刺さるように出現することさえある。もしかすれば、観測できないだけで、昔のゲームよろしく石の中などにも出現しているかもしれない。今のところ立方体の出現によって生物(特に人間)が巻き込まれたという話はない。立方体が出現するとき、立方体の出現する一立方メートル分の領域以外では破壊が起こっていない。厳密に一立方メートルの体積を占有し、立方体外部に対しては一切の影響を及ぼさない。領域内部に以前存在し立方体の出現によって巻き込まれてしまった物体は定かではない。観測不能である。
それらは発生が確認されると次の日付が変わる時間に消失する。異物が碑のように何時までも残らないことは我らにとって救いであるかもしれない。ただし立方体が消失するときは出現時に占有した空間を丸ごと消失させる。そのため立方体の消失後、そこには奇麗な矩形の跡が残る。
立方体に触れることは可能だ。一度触れればその異様さが否応なく理解できる。この立方体は正確に外部の力に反作用するように力を返すため、立方体に触れたまま表面をなぞることはできない。それに乗ることは可能だが、あまり意味はない。天秤の要の役割を果たしているだけなのだから。熱に対してもこの立方体は不変である。日光が差せば黒体であるそれは光の熱量を吸収して温度が上昇するはずである。立方体を削ることもできないのでしかたなく我々はそれに温度計を近づける。温度は変化する気配もない。そして我々がそうこうしているうちに温度計自体が熱されて計測が無意味になるのだった。物体には熱による膨張という現象があるはずであるが、それも見られない。電極を持って行き、電流を流してみようともがく研究者もいた。やはり絶縁体であることは、今までに無意味に終わった測定を思えば容易に推察できそうであるが。もはや蛇足であるような気もしているが、この黒体は黒体であるにもかかわらず黒体輻射もしていない。黒体輻射とは黒体がその温度によって放出する電磁波のことであり、普通はそれを測定すると物体の温度がわかるのだが、それもない。
これらのほぼ全ての事柄が明らかに物理現象と反しているか、ないしは現実的な物理的常識に反している。科学者たちは立方体について形而上学的に理想的な物体であるというが、まさしくそうであろう。力学的に与えられた条件から言って、この存在は質量が無限である。そのようなものはあり得ないのだが。質量が無限であれば言うまでもなくブラックホールなどといった馬鹿げた天文的な事象が起こるにきまっている。しかしそんなことは起こらない。この立方体は確かにブラックだが、ブラックホールではない。それどころかまず万有引力に違反している。地球の重力を無視して、立方体は悠々と空に浮いている。また質量が無限大ならばそのほか質量の関わる単位系全てが無意味になるだろう。反発係数が一となることもおかしい。完全な弾性衝突を行うのは量子の雲を飛ぶ極小の分子たちであろう。一メートルものマクロな体積を持ちながらその振る舞いはあり得ない。完全な剛体というのもまた理念だけの代物だ。
立方体は物理的に不可解な点が多数存在する。むしろこう問うのが正しいのかもしれない。そもそもこの立方体は、まともな原子構造を持っているのだろうか?それ以上に、まともな原子論的存在といえるだろうか?黒体である以上、X線を照射しその光の回折によって立方体の原子構造を直接に把握することはできないが、そもそも黒体というものは、そんなにも無闇にあっていいものではないのだ。先に行ったようにまずもって立方体は滑らかな平面である。しかし黒体である。ここに常識が通用しない。通常黒体実験に用いられるのは針ほどの穴を開けた箱か、そうでなければ多孔質であると相場が決まっている。そうでなければ光学的におかしい。物体があれば、光を反射するもので、そこに最初から光が差し込まない、何もない場合に限ってのみ理想的な黒体となる。しかし立方体はそうでない。物体であるにもかかわらず、光の類を受けていて、その上で、反射しない。それは「ありえない」のだ。
物理学的に考えて。
いよいよ科学者の言った言葉が思い出される。「形而上学的に理想的な物体」。それはもしかすると、立方体の存在をこの上なく明晰に捉えた言葉なのかもしれない。諸君には、この立方体が正確に一立方メートルの体積を持っていることを思い出してもらいたい。正確に方位を定めて出現することを思い出してもらいたい。空間を容赦なく切り取って出現することを。時報が二四時を知らせるとともに消失することを。
この立方体は正確だ。その正確さは度を超えている。日常的物理的な正確さを超えて、これ以上に正確なものは何だろうか?思い当たる物は少なく、また立方体という存在に一致する正確さはただ一つしか考えられない。
数学。
数理哲学と論理学の境界にある。「厳密さ」。存在に対して、経験に寄らず、先天的に下される類の厳密は、この立方体の存在に、「正確すぎる」。
物理という枷をはずれて、想像力を豊かにもてば、立方体はあらゆる面で数学的だ。立方体に対して与えられる物理的な事柄は「反作用がある」というのみ。ならば、この存在は、真に形而上学的に、「反作用」という「言葉」から同語反復的に生まれ、「言葉」を繰り返す形で生まれたのではないか?
質量という定義を経る前に、「ニュートンの法則」自体から立方体が生まれ、それを厳密に守っているとするなら、これらの疑問は一気に氷解する。ポアンカレを思い出せば、ニュートンの法則における質量、加速度等の通常存在的に規定される数値はまず「第二法則の計算式」によって関係付けられる。しかし、質量と加速度は経験的な事柄を含んでおり、それらを我々がア・プリオリに定義づけることが出来ない。むしろ、「質点の運動(運動量)の時間的変化は、それにかかる力の大きさに比例し、力の方向に作用する。」という計算式によって「決定される」。立方体が正確にその位置から動こうとしないならば、質量は「計算によって」無限となるのだ。つまり質量は力学法則の下で二次的に決まる次の「言葉」である。
厳密な「言葉」がこの立方体を支配している。人が決めた「一メートル」を厳密に守るのはそれが「言葉」だからだ。二四時に消えるのもそれは人が決めた「言葉」だからだ。これが立方体なのは?今なら当然のこととして理解できるだろう。立方体を規定する三つの次元、それが人間の理解する、「言葉」で織られた空間であったからだ。
立方体が象徴するモノリス。それはもはやどうしようもない厳密さで我々の目前にそそりたつ。
あの有名な映画の中で、サルが知恵を付けたのは?
「宮殿」の「エピタフ」に彫られていたのは?
ナポレオンがエジプトから持ち帰ったのは、いったいぜんたいなんだったのか?
そこまで思い至った我らは「ようやく」、再び現れた立方体に、今度は「言葉」より摩耗していく。
Note 4 (MGM 7)
エルザ。僕は異国のシュルレアリスト、ルイ・アラゴンに倣って愛を語って見せようと思う。しかしまずもってこれから手紙を書こうとしている僕は、真っ白の便箋に直面し、その白さに圧倒されている。文字を書くにしちゃあ、この便箋は幾分白すぎるとは思わないか?フランスの詩人マラルメだっていつもそういって詩を書いていたよ。それに、書き付けるものが、選りにも選って君への愛の告白だのという、少しばかり時代錯誤のにおいを感じさせるそれなら、便箋はもっと猥雑な文句につづられているもんだろ?(いや愛を始めるための初々しい告白はもう済まされているのだから、君は少し違った読み方をするるのだろうけれど、もう一度、馬鹿みたいに無闇に甘酸っぱい言葉を垂れるのも、悪くないと僕は思う)少なくとも僕には、この便箋は白すぎるんだ。それで、僕は滑稽にも、わざわざ愛という部分を大文字にしてしまうだろう。こうやって愛という文字を連ねていると、書き付けられた言葉なんていうものは少し嘘くさい。愛と紙に書き付けてから、きっと僕は君がこれを読むだろうことに耐え切れずに、AとMとOとUとRの上に、点を付け加えてみるだろうね。最後のRの上に傍点を打ちつけたとき、少し迷いがあったみたいに思える。見な、ペンの筆先が便箋から離れずに、きれいな丸にならなくて、髭をはやしているよ。煮え切らない。まるで僕みたいでいとしく思う。けれど書き直すことはしないでおくよ。この手紙を書く前にも僕はこういう手紙を書いたんだ。でもいつまでたっても書きあがらないし、終わりが見えないし、第一僕はこんな書き間違えばかりをしている。そのたびに僕は椅子を蹴倒して立ち上がり、まっさらな便箋をクシャクシャに丸めてゴミ箱の中に投げ込んでしまうから、便箋はめちゃくちゃになるし、インクはにじんで読み取れないようになる。これも僕が君をどれだけ想っているかを示しているのかもしれない。それならまだ、捨てられた手紙も無駄にならないと感じているけれど。君はどう思う?君を想ってこんなにおかしくなってしまうなんて、僕はグズすぎるんじゃないかしら?それどころか、いつもそうなんだ、君を想うと僕はダメになる。平常心でいられないのさ。君が悪いというわけではないけれど、君はすこし僕の心を占めすぎている気がする。好きという言葉が僕の心を十字架に打ちつけていく。「好き」とか「愛」とか言う言葉にはたとえどんなときでもそういう恐ろしい神秘的なところがある。いつだって僕の言葉になってくれなくて、僕が手紙を書く段取りになっていても、どこからか君の指先が伸びてきて、そっと筆先を持ち去っていくよう。そうやって現れた君にしたって、本当に君そのものなのか僕にはわからない。君にたどり着けないみじめな僕が、心の中に勝手に君の幻灯を作り出し、都合のよい君を捏造している気がする。そうやって出来た君ということが、まず僕の手紙の中でかぎ括弧に入れられるべきだと思う。愛という言葉を持ち出してきた途端に、君は言葉の彼岸へ流れ去って、言葉の氾濫した土手の上で僕は悲嘆にくれる。ああ、遠い土地にいる君に会いたい。会って話がしたい。指を絡めてキスを交わしたい。僕を占めている感情というのは、実際、その程度の淡いもののはずで、その感情にはまったくブレがない。(だから僕はこのような手紙を書くことを、幼稚にも、考えているんだ……)つまり僕はやるかたなく君が好きなのだけれど、それは好きという言葉には収まりきらないように思える。むしろこうやって僕が「好き」と書けば書くほどその言葉が僕と君の間ではなく何処かからやってきたもののように感じられて仕方ない。僕は不安だよ。言葉では君に伝えることが出来ないし、その言葉が逆に僕をなにか世間にありふれるものに変えてしまうのが。僕は今再び愛の上に傍点を付したい気分だ。それから下線を引いて、カギ括弧にも囲ってやる。けれどそうやって愛という言葉は僕の眼前から過ぎ去って行くのだ。「好き」とどうやって伝えればいいだろう?昔にしたように、君に、僕の口から出る言葉を聞いてほしいと思ってる。そうだ、この手紙を読み終わったら、今度はこの手紙を音読してほしい。そうやって君の口を経て生まれた、ううん、「生まれ変わった」言葉ならきっと僕の言いたかったことが伝わるんじゃないかな。そうであってほしいと思うよ。この手紙は白すぎるし、筆記体で書いた言葉では細すぎる。誤解してほしくはないけれど、「愛」という言葉が繊細なのではなくて、単純に紙に書かれている、書かれてしまった、そういう文字が「細い」のだ。ペンとインクで書かれた、黒い筆跡自体が、「愛」という言葉に比べて、小さすぎる。紙だって白すぎるし広すぎる。広すぎるくせに薄くて、僕の言葉は横に、厚みを持たないままに伸びていってしまう。「愛」という言葉を、この広い便箋に書き付けるたび、僕の指先は震えていて、そういう文字から僕の、告白という重大な出来事に持っている恐れを感じることは確かにできるだろうけれど、僕にはそれでも足りないと思う。最初に書いた「愛」という言葉を、僕はその手で消さなくてはならないのではないだろうか?僕はこの手紙を書いている最中何度もそれを実行した。最初の愛という言葉の所だけ、白インクで酷く盛り上がって、Aの上に描かれた傍点も消えかけているね。紙が汚れてきた。白すぎる便箋も大分埋まってきた。むしろその方が適切にも感じている。「愛」を定める法は、言葉じゃあないだろ?君というべらぼうに素敵な人と、それと僕という人間がまず熱をもって生きているから、不可能に見える「愛」だって何とかなる希望があるのに、けれどその上で僕は愛を語って見せなければならない危機感も、同時に感じていて、そうしないと……。とにかく、「愛」という言葉でないと、僕が君を想っていることは、伝えようがない、というか、「愛」という言葉の中を君が認めることでしか、僕の心は安住できない。その言葉がまったく違う言葉、たとえば「林檎」であったり、他の意味のない言葉だったら、そういう味気ない言葉を使うのでは、こうして手紙を送ることさえむなしいんだよ。僕が想っていることというのは、そういうものじゃないということをどうか分かってほしい。どうか、僕の口から出た、意味のある、僕の心から生まれた言葉だと、思ってほしい。いとしいエルザへ。
最終更新:2011年10月24日 20:10