Note 5 (MGM 8)
一八六八年に生まれてからフネスは特に才覚を示していたわけではない。しかし半身不随となってから、フネスの持つ記憶はひどく鮮明なものになった。落馬し、さらに感染症を罹患した彼は数日高熱にうなされた。熱に浮かされ、全ての記憶をなくしたように彼は感じた。目覚めると彼は特異な記憶力を持っていた。ブエノスアイレスに居る彼の友人は、彼のことを一つの短編で語っている。友人によれば、我々が黒板に描かれた三角形や円や立方体を完全に直観できるのと同じ精度で、走る馬のたてがみや変化する炎、苦悶する病人の表情や無数の星の一つ一つを、記憶しておくことが出来たらしい。フネスが
見たものは、フネスの脳裏に余すところ無く焼き付けられ、その細部に至るまで忘却することなく、再び目蓋の裏に映して見ることが出来る。そのような飛び抜けた記憶力を持つ彼にとって、もはや睡眠は容易ではない。彼は天井の木目の表情を生々しく記憶している。蜘蛛の巣の網目、その上を忙しく走る蜘蛛、からみついた埃の繊維の一本一本。彼のヴィジョンから、それらが消去されることは一切ないのだ。
再び彼は目覚める。ただしそこは(何の脈絡もない)見知らぬ寝台の上であった。不衛生な彼の小屋ではなく、清潔で白い屋内であった。薄く味気ない毛布の代わりに柔らかい羽毛の布団が掛けられているのも、彼の記憶とは異なった。土の匂いよりもむしろ金属の匂いがする部屋に、居心地の悪さを感じた。南向きの窓からは、あの強い日差しから彼は推論するが、朝日が差し込んでいた。イチジクは無く、代わりに窓際に花瓶にトケイソウが生けられており、強い日差しに花瓶は長い影を引いている。彼はまずそのあまりの環境の変化に、驚いてみることにした。彼の脳裏では昨夜まで過ごしていた部屋についての連想がめまぐるしく繰り広げられていたが、それを現状と結びつけることは不可能に近いと彼は冷静に感じてもいた。
音もなくスライドするドアが開き一人の女性が入ってきた。彼女は清潔な白い服を着ていた。清潔すぎるそれは、見ようによれば何かへの所属を示す制服のようにも見える。起きられたんですか。彼女は気さくな様子で彼に話しかけた。フネスは、どう話を開始させるべきなのか、困惑の表情を浮かべた。それから、お早う、それにしても私はどこに連れて来られたんだろう、と、曖昧に言った。以前からここで療養されていますが・・・・・・どうかしましたか。フネスは、自分が昨夜まで自分の家の寝台に眠っていた、と、そのように記憶していたことをグズグズと述べてみるが、女性は首をかしげ、分からないですけれども、具合が悪いのでしたら担当医と面談をした方がよろしいのではないでしょうか、と言い、それから花瓶の水を換えて、出て行った。そこでフネスは再び自分の記憶との照合を開始する。
寝台の枕元に置かれたカレンダーを発見し、まずそれを彼は入念に調べた。それは一月ごとに日付を表示するタイプのものだったが、フネスが「昨夜」として覚えている日付とは年も月も異なっていた。日付は未来に(しかも大幅に)進んでおり、調べた結果、それが自分をだますためだけに作られたようなちゃちなものではないことが知れた。第一の結論として、フネスは時間を経過していることを確認する。それからフネスは白いカバーに覆われた枕を眺め、このようなものを今までに目にしたことがあったろうか、記憶を探ってみる。真っ白に漂白された生地で眠るというのは、通常庶民においては無かったはずだ。王侯貴族の振る舞いであったと記憶している。厳密には、ブエノスアイレスの新聞記事から得た知識であり、その新聞紙は久しぶりに写真が入っていたのだ。南部の村の祭りの様子を写した写真が。フネスはそういった経験の一つ一つを忘れることなく覚えているのである。そういえば。フネスは再びカレンダーを調べた。表記はスペイン語である。しかし、はっきりとした違和感を感じる。それから太陽の方向。カレンダーの日付は九月。晩冬である。それにしては暑く、太陽は高い軌道に位置しているように思える。それにアルゼンチンならば。太陽は北の空を通って行くのだ。そのとき部屋の南側についている窓から、光は差し込まない。つまりここでは太陽は南の空を通っていき、即ちここは北半球である。おそらくヨーロッパ、スペイン。自分が時間と空間を移動していることを推論し、彼はひどい記憶の混乱だと断じた。それから怒りがこみ上げた。自分は世界に虚偽されている。特異記憶となった彼が今までに育ててきた尊大な自意識が、そう考えるようにフネスを仕向ける。
次にフネスは、経過した時間を「どのようにして」移動したのか、あるいは移動していたのかを考える。フネスの記憶の中では、「昨夜アルゼンチンの田舎の小屋で眠り」、次に直接に、「今朝このスペインの病院にて目覚める」という体験をしていることになっている。これを具体的に日付をつけるとすれば、一八八七年三月九日から、一九〇七年九月まで、記憶なしにフネスは移動している。自分はかなりの時間を経由している(はずである)。この時間はひどく長い。二十年。くわえてフネスは不自由な身である。病弱であり、医師もそれほど長く生きることはないだろうと診断していたはずだ。何の記憶、経験もないとは考えられない。ならば、自分は二十年もの間眠っていたのか?自由に動く右腕を持ち上げ、光に透かしてみる。どこにも異常は見られず、以前と同じ赤い血が通っている。自分の記憶の明確さは昨夜と今朝の自分を識別できるほどだが、ひいき目に見ても自分の肌が二十年の歳月を重ねているとは言えない。一九〇七年の今朝と一八八七年の昨夜で見られる指先の差異は、一昨日の晩と昨日の晩との指先の差異よりも小さい。
フネスは、もしかすると自分が二十年の歳月をすっ飛ばしてきたのではないだろうかと考えた。その方が彼には説得力があった。何より自分が世界に優越しているような気持ちがした。しかし「どうやって」の問いに答えられたとき次にわき上がるのは「なぜ」の問いだ。フネスは何故このようなテレポーテーションを果たしたのか?彼もこの問いには失笑を漏らした。馬鹿げている。
馬鹿げているのだ。誰だこんな問いを与えたのは。そうつぶやいたフネスは、「誰」という言葉を見る。片眉を、彼はゆっくりとつり上げた。
そもそもこのスペインの病院で横になる自分は、フネスだろうか?
「私」は「フネス」ではないかもしれない。このような考えを真剣に考えようとしている自分が可笑しい。しかし苦笑をかみつぶして彼は思索を進める。私とフネスとの間には(その言葉の間には)緩やかな連合関係がある。私がフネスである、ということ、「私」が「フネス」と名のることで完成されるだろうか?「私」の立場から見ればそれは正しい。「私」はそれだけの記憶と能力を、十分に持っているからだ。しかし、「私」がブエノスアイレスに居た「フネス」と同じ人間であるという証明には、残念ながら、ならない。「フネス」から「私」へは移動できない。時間的空間的な制約から明らかである。
それでは、「私」とは何者だろうか?
しかし答えは始めから、与えられている。「「私」は「フネス」である。」。
先の言葉をカギ括弧に入れる程度には余裕が出来てきたと感じた。一度考える時間が必要なのではないか。そう考えていた彼のところに、再び女がやってきた。彼女は朝食らしき食べ物を持ってきた。デニッシュとスープ。思わぬ女の出現に彼は少し驚いたが、それから彼女の服装を尋ねた。なぜそんな妙に綺麗な服を着ているのか。彼女は、口説かれているとでも勘違いしたのか少しおもしろそうに、ナース服という看護専門のワンピース(元はシスターの服装らしい。確かにそういうところも見られる)を、最近この病院も採用したことを話してくれた。彼が食事を平らげると彼女は食器を配膳車に戻ってゆく。彼は部屋を出、ドアを閉めようとする彼女に、また来るかと聞いた。彼女はうなずき、微笑んだ。彼は名前を教えてほしいと言った。白衣の女性は答える。
「そうねフネスさん、ここは病院で、私は貴方のお世話をするのね。だから私を呼ぶときは、「看護婦さん」って呼んでくださいね」
「看護婦さん」はそういってドアを閉めた。落胆がなかったわけではないが、それはともかく彼女は「看護婦さん」という役割を「引き受けて」いるのだ。そこでフネスは閃く。「彼女」と「看護婦さん」の役割の引き受けとは、まさに「私」と「フネス」との関係とも言えるのではないだろうか?
つまり「私」は「フネス」、「として」、スペインに出現したのだ。「私」が「フネス」を渇望し、同一視し、しかもブエノスアイレスにいた(おそらく亡くなっているはずの)「フネス」本人はそれを知らない。「フネス」は「フネス」という名前であり、一度小説にも描かれた何かであった。そして「私」は「フネス」の名前として、何らかの陰謀で、「引用」を、されたのだ。おそらくは、以前と同じろくでもない理由だろうな。フネスは想像する。再び短編に付け加えられることを。
Note 6 (MGM 9)
彼は優れて言葉を殺害した、と書斎を発掘した人はいった。文字を書き続けた老人は部屋の中心で枯れて去り、紙片の海に溺れて死んだ。しかし彼の書斎の膨大さは、発掘者さえ犯ししめる。彼の妻は彼の残したものにとりつかれた。書斎の窓を塗りつぶすようにして描かれた大文字のAが、彼女を呪う。彼女は夫のテキストを目に入れていた。それは書斎を片づけるために仕方なく目にしてしてしまったものである。しかし一度目にしたその光景は彼女の脳裏に悪夢のように焼き付いて離れない。
彼女もまた夢を見た。彼のようではなく、毎日毎日繰り返し夢を見続けさせられた。彼が殺し尽くした文字はもはや意味を成してはおらず、のたうった文字は手書きであろうがタイプライターであろうが全く機能しない幾何学的なものに成り下がっていた。だからこそ彼女はその光景を焼き付けることになったのであろう。書斎は森のごときものだ。一枚一枚の葉ではなく、一本の木、一本の木ではなく森として、迷宮化された言葉がのしかかり、彼女を迷い込ませる迷路となる。彼女はその迷路を休むことなく歩き続けさせられ、出口は当然のことながら存在せず、その壁面は規則的に蠕動している。規則的なものこそ彼が残したものだ。それは次第に脳裏で形を変え、一つの文字に見えてくる。(大文字のA。)彼女の神経へ感染した文様を、彼女が拒否することができない。一つの文字を彼女は夢の中で発見したとき、彼の要塞が一度に彼女にも書き込まれた。一つの文字は、あらゆる文字を含んでいる。一つの文字さえあれば、あらゆる文字にたどり着くように迷宮が見渡せるのだ。様々な言葉を使うことが不思議に思える。言葉は(大文字のA)であって、一つのラングだから。言葉の迷宮を表記することこそ、彼のたくらんだことではないだろうか。
彼女は歩いた。そうすると言葉が後を追ってきた。言葉をふるえば、彼女はどこへでも行けた。次第に、彼女の指先が、言葉に見えてきた。老いの目立ってきた指先には深いしわが刻まれている。そのしわは皮膚の上を走っている。長いしわはその両端に返しがついていて、不思議とIに似ている。関節近くはしわが折れ曲がっている。Lと似ている。よく探せばN,Eの二文字も見つかった。しわを描いた四文字の関連性、つまりLINEという文字の並びが皮膚のそこかしこに見られる。そうすれば当然、肌はS、K、I、Nで描かれてしまっていた。腕はAとRとMが凝縮して出来ており、そのおくに血(BROOD)と骨(BONE)が透けて見える。屋根のない迷宮の天球面にはSKYとでも描かれている。そしてそのどれもが、意味を剥奪されていた。文字の並びが言語を特徴づけるだけだ。そこに何の不思議もない。言語は迷宮の道順で表現されている。そして迷宮とは大文字のAなのだ。
そう理解した彼女は言葉を話さなくなった。その代わり彼女はAを得た。Aはあらゆる文字であり、莫大のAである。彼女のAを、人は聞くことができない。
Note 7 (MGM 10)
司書は数枚の紙片に目を落とした。それらは全て「note」と題されていた。紙はB5低度の大きさの同じ紙質で、長方形の長辺は不揃いに破れており、何かの本から破り取られたように見えた。しかし内容は纏まりを欠いており、ある学者が発狂しただの、立方体が出現しただのということが書かれているものは比較的小説くさかったが、なにやら魔法について語っているものは論文調で、且つでたらめであり、そのどれもが非現実的である。
「しかし、こんなものが地下から見つかったからといっても」
司書は顔を上げ、同じく不可解な文書を解読させられている部下に無駄口を叩いてみる。
「いちいち図書館員に修復させるのでは、効率が悪いのではないかいね……」
図書館はひどく広く、しばしばこのように紛失された紙片や、本がどこからか発掘される。利用者は居ないが、借り出しは多く、このような悪戯も後を絶たない。そのように降って湧いた身元不明の文書たちを、図書館の書架に位置づけ、元の位置に戻してやるのも、図書館員の仕事の一つだ。
「それにしても、この文書たちをね、一つの本から盗られたものとしていいのかね。このページも、同じような紙に書かれているとは言えるけれども、これらの「note」とやらが、過去に同じ本に属していたということは言えるのかい?全く別の本から取られてきたものが、何かの拍子で一緒になることだってあるわけだ、これが同じ本であるということを言うためにはどういう証拠が必要なのか?」
「同じだということは難しいでしょうね、しかし、同じようなということは可能だと思いますけれど」
そういって部下はこの紙片の共通項を列挙していく。B5の紙に書かれているということ、フォント、段組が同じであること、同じ言語で書かれていること、同じような題材を取り出してみせることが出来ること、他。
「そんなもので文章をつなげられるかねぇ。というかどこから繋がっているのかを考えた方が業務には役立つだろうけれど。それよりこの紙切れがどこかの本から抜き取られていると言うことで僕らは仕事しているが、実際、この文章自体が一つの本になっているという可能性も無いことはないわけでね。ボードレールなんかは、あれだ、献辞やらまでも作品になってるんでしょう、たしか。別に僕はこれを適当に製本してやって、表紙と目次と索引と、まあ参考文献なんかもつけてやって、それからフィクションの棚にでも放り込んでおけばいいんじゃないかなと考えるんだけれど、それはやはりだめだろうな、部長的に」
「またどやされるでしょう。部長的に。いやですよ」
部下はにべもない。まだるっこしい。
「これがどこかから盗られたと仮定するんなら、盗られました的な本もまたどこかで見つかってなければおかしいし、実際そんなものは聞いてない。返却のほうにも報告は来てないしね、何故こんなものが返却されているのか、図書館になくてよくないですか盗まれたのなら」
「仕方ないです。そういう図書館なんですここは」
「そうだよ。おかしいんだよ。新しい文書が発掘されるのって明らかにおかしいんだよ。この図書館は。一階毎に司書が居るらしいけれどもね、僕ら修復士のところによこされる物って、基本的に一つ上か一つ下の階から流れてきた物じゃない?今回も僕らのところにこのページの元は無いだろうから上に流すのだろうけれど、この本の流れってのはいったいどうなっているのかね。このページはどこまでも流れていくのかもしれないし、流れ続けてきたのかもしれない。部長は教えてくれないし。一階毎に限られた本というのは知れているし、データベースもあってそれは全ての本を検索することができる、とされているけれど、それは本当にこの図書館を網羅しているのかいな?」
「それはつまり、このページは元々本でもなかったってことですか?」
「もしかすると、そうかもしれないね。本からではなく、このページは木の股から生まれるように本棚から生まれてきたのかもしれない。そういう風な紙面といえばそうだ。こんな文書、でっち上げるのはたやすいだろうし、このページを繋いでいる物は、体裁と、言葉の並びだけだ。一冊の本になっていない言葉はその程度だよ。僕らの仕事みたいな原典、原テクストを探ることってさ、食っていける分にはありがたいけれども、とてもむなしいことだとは思わないだろうか?」
「そうかも知れないですね」
「そうだとしたら、僕らの仕事はすばらしく権威があるだろうね。君、何で僕らは本を特定できるの?」
「元の本が破れているからですか?」
「そうだね、でもそれだけじゃ一言足りないね」
「元の本のページが破かれているからですか?」
司書は部下の答えに満足して、席を立った。便所に向かった彼は、ページを散り散りにして、流した。便器には、悪戯に、誰かのサインが書かれている。
最終更新:2011年10月24日 20:09