76 :『杜を駆けて番外参』 ◆GudqKUm.ok :2008/10/02(木) 00:10:23 ID:5epijdIM
容赦なく照りつける八月の眩い太陽の下、
高杜学園初等部の教室に、ぽつり、ぽつりと生徒達が集まり始めた。
「おはよう。」
「おはよう。…今日は、授業?」
「そうらしいよ。畑、いいのかな?」
日焼けした坊主頭の少年達は窓から中庭を見下ろす。
水の出ていない噴水を取り巻いてびっしりと植えられた芋の葉は、黙々と過酷な日差しに耐えている。
「先生がみえるわよ!!」
おかっぱ頭の少女の声に、生徒達は慌ただしく席に着いた。
「起立!!」
カラカラと扉が開くと同時に響く『級長』の号令。
「あれ?」
「学園長先生だ…」
蒸し暑い教室に低いざわめきが起こり、担任の名前と、『赤紙』という不吉な単語が押し殺した声であちこちから漏れた。
「静かに。」
教壇の学園長は教室の幼い生徒達を見回し、よく通る声で話し始める。
「松井先生は風邪でお休みゆえ、本日はこの学園長が授業を行う。」
安堵の声のなか、『級長』が挙手して学園長に尋ねた。
「学園長先生。勤労奉仕は… 芋の世話は、よろしいのでしょうか!!」
「…学園付きの将校は、うるさかろうがの。今日は、もっと大切な話を、皆に聴いて貰おうと思う。」
静寂のなか、学園長は、生徒ひとりひとりの目を見つめ、ゆっくりと問いを発した。
「『未来』という言葉の意味が解る者は?」
元気の良い声と共に、一斉に小さな手が挙がる。
「はい、はい先生!!」
「僕解ります!!」
学園長は立ち上がらんばかりに元気よく手を挙げるひとりの少年を差し、彼は直立不動で大声を張り上げた。
「未来とは、即ち、神国である大日本帝国が鬼畜米英に勝利し、不滅の大東亜共栄圏を打ち立てる日であります!!」
学園長はその生徒に微笑み、彼を座らせると再び全員に問いかけた。
「…では、その日、皆は何をしているか…いや、何がしたいか? 空襲も、勤労奉仕もないその、『未来』に?」
少し動揺したざわめきのなかに、挙がる手は見当たらない。
「…遠慮することは何もない。思うたことを答えれば良い。」
「…俺、電車に乗りてぇ…」
学園長の言葉に、一番後ろの席に陣取っていた、『餓鬼大将』がぼそりと答える。
「…いっぺんだけ、父ちゃんと、高杜駅から三嶽の造船所まで、電車に乗ったんだ。早かったなぁ…」
まだ開通したばかりだった鉄道は最初の空襲で、三嶽造船所と共に焼失した。
電車を追って、糸切川の河原を走る子供の姿はもう、見られない。
「…なるほど。素晴らしい未来じゃの。電車に乗って、どこまでも行ける未来… 皆、目を閉じてみよ…」
戸惑いながらも、素直に目を閉じた子供達の瞼に突然、信じられない光景が総天然色の活動写真のように映し出された。
「うそ…」
「…すげぇ…」
見たこともない流線型の電車が、信じられぬスピードで鷲背山の山麓から、豪奢な宮殿のような高杜駅に入る。
学生や勤労者がいそいそと乗降し、華やかで活気に溢れる壮麗な商店街に消えてゆく。
男の子はその空想小説のような情景に絶句し、女の子は店頭を飾るモダアンな洋服にうっとり見入った。
「…わたしは、父様に、珈琲を飲ませてあげたい。贅沢品だけど、いつかこんな『未来』に…」
目を閉じたまま、お下げの少女がおずおずと口を開くと、生徒達はたちまち、高く芳醇な香気に包まれた。
鮮やかな鉢植えに囲まれた清潔な店内。
優雅に漂う芳香は幼い彼らをもうっとりとさせる。
流暢な書体で書かれた『マクガフィン』の看板は彼らには読めないが、続いて可愛らしい狐の意匠を見た子供達は顔を見合わせて笑顔を浮かべた。
「…でも、わたし珈琲飲めないから、曹達水かなぁ…」
お下げの少女の言葉にみんなはどっと笑ったが、別の子が口を尖らせ叫ぶ。
「何言ってんだ!! やっぱり小掠屋の大福に決まってるだろ!! …焼けちまったけどさ…」
しかし彼らはすぐ、甘い匂いに満たされた、色とりどりの和菓子の並ぶ小椋屋の店内にいた。
店の造作はちがえど、落ち着いた優しい雰囲気は、彼らが大好きな大福のある小掠屋に間違いはない。
学園長の魔法は、子供達を次々と信じられない未来に案内し、彼らは目を輝かせて高杜の街を駆けた。
未来。
彼らが思い描く未来はすべて瞼の裏に映し出されてゆく。
今年は中止であろう高見神社の祭りも、やがて起こる一中や南高の蛮カラ学生達との小競り合いも、やがて進むべき道も、そして恋も、この街での、青春の全てが。
「…皆が描いた未来は、間違いなくここにある。忘れぬようにな。本校がある限り、皆の未来は生き続けると。」
間を置いて、学園長の声が、低く哀しげな響きを帯びた。
「…さて、もう、行かねばならぬな。」
『餓鬼大将』が目を丸くして言う。
「…行くって、やっぱり学童疎開…」
「…違うよ。文太。」
寂しげな笑みを浮かべた『級長』が進み出て、『餓鬼大将』の肩に手をそっと置き、学園長に語りかける。
「学園長先生、有難うございました。僕達、毎年ここに還って来るときは、何故かあの朝に戻ってるんです。申し訳ありません。」
「…あ、そうだった。」
『餓鬼大将』は笑って頭を掻くと、学園長に一礼し、いつの間にか開いた扉から差す眩しい光の中にゆっくりと歩み寄り、そして消えていった。
名残惜しげな同級生たちも、同じように学園長に暇を告げ、彼の後に続く。
「…じゃ、失礼します。」
「うむ。…来年も、待っておる。」
最後まで彼を待っていたお下げの少女と手を繋いだ『級長』も、直視できぬほどまばゆい光の中へと振り返りつつ歩み去り、この古びて閉鎖された教室の扉は静かに閉じた。
「…毎年、この日の警護は無用と言うておる。」
ひとり教室に残った学園長の厳しい声に、学園長警護の頭にして小金井一党の重鎮、小金井弦蔵が音も無く姿を現す。
齢七十余を重ねるその厳しい表情は動かず、毎年の学園長のこの言葉に応えることも無かった。
「…軍の命令通り、畑に出しておれば、あの子らのうち、幾人かは助かっておったかも知れぬ…。」
中庭の芝生の上で、吹奏楽部が陽気なマーチの練習を始めるのが見えた。
またも弦蔵は応えない。沈黙を続ける彼が、初等部の教室に焼夷弾が命中したあの日、たったひとり欠席して悲運を免れた生徒だったことを、学園長は今年もまた、忘れたふりをする。
やがて、教卓に置いたサクマドロップの函をじっと見つめる学園長に一礼すると、弦蔵は旧友たちの後を追うように、再び音も無く教室から姿を消した。
END
最終更新:2008年10月04日 22:13