586 :夏の残り香 ◆HdhN8f97gI :2008/09/21(日) 17:09:17 ID:GzogV0SR
放課後を知らせるチャイムがスピーカーから鳴り響くと、教室は息を吹き返したように活気付く。
部活や委員会に向かう奴や、さっさと帰る奴、教室に残ってこれからの予定を話し始める奴。解放感が溢れる喧騒を尻目に、僕は一人、足早に教室を後にした。
まるで、逃げるみたいに。
結局、沢口とは気まずいままだった。話どころか、目配せすらできていない。
陰鬱な気分は止まらず、鬱屈した溜息が押し出される。
どうにかしたいのに、どうしたらいいのか分からない。答えが欲しいのに、探し方が見つからない。
嘘っぱちでもいいから、宝の地図が欲しかった。
それがあれば、少なくとも道しるべにはなるから。間違っていたとしても、進める道さえ伸びていれば、がむしゃらに走っていけるのに。
いや、それすらも僕には無理かもしれない。間違えて傷つくのは、もう嫌だ。
靴を履き替えて外に出る。まだ太陽は天高くで輝いていて、降り注ぐ日光がじりじりと肌に突き刺さる。運動部の気合充分な掛け声が、暑さに拍車を掛けていた。校門の先、よく焼けたアスファルトからは、陽炎が立ち昇っている。
まだ、うんざりする暑さは続きそうだった。
学校を出た僕は、
高杜モールへと足を向ける。駅前という立地条件や、豊富な店舗数と相まって、放課後の高杜モールには学生の姿が多くなる。きっともう、『ハイランダー』あたりは制服姿で溢れかえっているだろう。
でも僕の目的地は、もっと年齢層が上の方々が主な客層であるスーパーマーケット、高杜スマイリーである。
宮野先輩と約束した、弁当の素材を見繕うためだ。
何を作るかは決まっていない。得意料理が食べたい、と言ってくれたが、素直にそれを弁当に入れるのは憚れる。
僕の得意料理は、餃子なのだ。匂いのキツいものを、女の子の弁当に入れるのは問題だ。
とりあえず、着いたら適当に見て回ってみるか。安売りしてる商品とかも分からないし。
「おーい啓祐ーっ! 待てよーっ!」
背後からの呼び声に振り返ると、敦彦が息を切らせながら駆け寄ってきていた。
思わず、敦彦の周りに目を走らせる。どうやら一人らしい。
「黙って先に帰るなよなー」
「ごめん。ちょっと、用事があって」
「だからって何も言わずに行くことはないだろー?」
僕に追いつくと速度を緩め、隣を歩き始める敦彦。手のひらを団扇のようにして、パタパタと扇ぎ始めた。
「……そうだね。本当、ごめん」
謝りながら、僕は、何も言ってこなかったことを今更思い出す。
僕ら四人は、いつも放課後になると一緒につるんでいた。何か用事があって遊べないときは、必ずそう伝えていた。
なのに僕は、その暗黙のルールを破ってしまっていた。沢口との気まずさを避けるために。
今になって初めて、気が付く。
当たり前だった僕らの関係に、楽しくてかけがえのない日常に、軋みが生じていた。
敦彦と、深谷と、沢口と、僕の四人で共有していたはずの大切な日常に、他でもない僕自身が、ヒビを入れていた。
後悔が一気に湧き上がる。
告白なんてしなければよかったと、心から、そう思う。
やらなくて後悔するより、やって後悔した方がいいなんて、大嘘だ。最初にそう言った奴にクレームを付けたい。
「なぁ、何処行くのか知らねーけど、俺も一緒に行っていいか?」
「……え?」
思いがけない敦彦の申し出に、間抜けな返事をしてしまう。
勝手な行動をしたんだから、責められてもおかしくない。それなのに敦彦の調子は、いつもと変わらなかった。
まるで、日常は何も変わらないで在り続けていると言うように。
それが、僕の心を少しだけ軽くしてくれる。
「うん、いいけど……楽しくないよ? スーパー行くだけだしさ」
だから、断れなかった。断りたくなんて、なかった。
「構いやしねーって。どうせ暇だしな」
ルールを無視して勝手な行動をする僕を、叱りもせずにいてくれることが嬉しくて。
このクソ熱いのに、走って追いかけてくれたことが、本当にありがたくて。
「つーか、スーパーって高杜スマイリーだろ? あっこは楽しいって」
「えぇ? どのあたりが?」
雑談を交わしながら、僕は、内心で礼を言う。
――ありがと、敦彦。
◆
自動ドアを潜ると、よく冷えた空気が全身を包んでくる。汗をかいた体には、冷たすぎるくらいの空調だった。
カゴを手に取って青果コーナーに足を踏み入れる。
僕ら以外の客は、当然ながら奥様がほとんどだ。学生服を着た男なんて、僕らだけだった。
それでも場違いな感覚が少ないのは、果物と睨めっこしている金髪美人――カフェ『リトルフォックス』のマスターである外国人女性が、僕ら以上に目立っているからかもしれない。確か、ヘレンさんって名前だっけ。
「さて、料理の鉄人啓祐先生は何を買いにきたんだ?」
ヘレンさんの後ろを通り過ぎたところで、敦彦が尋ねてくる。
「まだ決めてない。適当に物色するつもり」
「俺、肉食いたい」
「買ってったら? 分厚い高級サーロインステーキとかさ。あ、玉ねぎ安い」
玉ねぎをカゴに入れる。そんな僕を追い抜いて、敦彦は精肉コーナーへと歩いていく。まさか、本当に買うつもりなんだろうか?
物欲しそうに牛肉を眺めている敦彦に追いつく。
冷蔵ワゴンに並ぶ霜降り国産牛は、とても美味しそうだ。たっぷり脂が乗ったその肉が焼ける様を想像すると、腹の虫が鳴き出しそうになる。その分お値段も立派で、風格が漂っていた。
「お前さ、焼肉食いたくね?」
「うん。僕も同じこと考えてた。網焼きとかたまらないよね」
「だよなだよなー。よーし」
敦彦は、国産牛の隣に並んでいるオーストラリア産ビーフを手に取る。更に隣にあるひき肉を、僕は手に取った。
「ちょっと今更な感じもするけど、みんなでバーベキューやろうぜ! 国産は無理だけど、オージービーフだって美味いよな!」
ハンバーグにしようかと考え始めた僕の頭の中が、固まってしまう。
敦彦の提案は、とても魅力的なはずだった。
でも。
みんなで、という表現に誰が含まれているのかを考えると、即答ができなくなる。
ひき肉を持ったまま、僕は必死で答えを探す。
行きたいのか、行きたくないのか。
鈍った思考では、そんな単純な答えすら叩き出せない。
「なぁ、啓祐」
敦彦が牛肉をワゴンに戻し、答えない僕を正面から見つめてくる。
その顔は、酷く真面目だった。
「――沢口と、何があったんだ?」
呼吸が、止まった。
店内に流れる放送の音が遠ざかっていく。まるで、僕らのいる場所だけが切り取られたような錯覚だった。
とぼけるなんて出来るわけがない。今日一日の僕と沢口の様子を見ていて、何もなかったなんて思う奴は相当の馬鹿だ。
でまかせを言ったとしても、きっとすぐに嘘だとばれるだろう。表面だけの下手くそな嘘が通用するほど、僕らの仲は浅くない。
そう、浅くないんだ。
だったら、どうしてこんなに悩んでいるんだろう? どうしてこんなに、言いあぐねているんだろう?
話せばすっきりするかもしれないと、心の片隅で思っているはずなのに。
言えない理由すら考えられないし、分からない。ただ、喉が声の出し方を忘れてしまったみたいに、僕は黙りこくってしまう。
無意識のうちに、指先が痛くなるくらいの強さでカゴを握っていた。
生まれた沈黙が重くのしかかってくる。それに屈して、僕は敦彦から目を逸らしてしまう。
「言いたくないなら言わなくていいぜ。変なこと聞いて悪かった」
すると敦彦は、気遣うように笑って、僕の肩を軽く叩いてくれた。
「ごめん……」
「お前今日、謝ってばっかりだな。気にすんなって。もし言いたくなったら、いつでも言えよ?」
敦彦の顔は優しくて、でも同時に、寂しそうで。
やっぱり僕は不甲斐無い。どうしてこうも駄目なんだ。心底嫌になってくる。
それなのに、こんなに駄目なのに。
敦彦は、僕を気に掛けてくれている。
申し訳ないと思いながら、でも、とても嬉しい。
「敦彦。本当、ありがとう」
このままじゃ駄目だって分かっているけど、今はそれだけしか言えなかった。
それでも敦彦は、照れくさそうに頷いてくれる。
高級サーロインステーキは無理だけど、ジュースくらいは奢ろうと思い、僕はひき肉をカゴに放り込んだ。
最終更新:2008年10月17日 01:10