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120 :twin ◆wQx7ecVrHs :2008/09/03(水) 01:04:29 ID:ui86OJKz

 昨夜の雨が嘘のように晴れ渡った青い空に浮かぶ太陽が、刻薄なまでの熱気を地上に提供する中を一人の少年が必死
の形相を浮かべながら全速力で走っていた。朝は大分涼しくなってはいるが、濡れた地面を暖める太陽の所為で蒸した
空気が蔓延る中ではそれも意味を成していない。結局、走り続ける少年にとっては熱さなど問題ではなく、バスに乗れ
るかどうかの方が重要であった。それだから自身の寝坊の所為で予定のバスに乗り込めない危機に陥っている少年は暑
さに嘆く暇も持ち合わせていない。夏休みが明けて、初の学校だと云うのに遅刻をしては恰好が付かないし、何より幼
馴染の馬鹿にしたような笑みがま歌の裏に鮮明に蘇って来る。少年――藤堂彬はくそ、と恨めしげに呟いて、更に足を
速めた。
 燦と輝く太陽は、彬を苦しめるように照り付ける。バス停までの道のりは、まだ遠かった。


◆序章


「はあっ、はあっ、はあっ……あ」

 彬はバス停までの道のりを百メートルほどまで詰めた時に、無情な光景を目にした。自分が乗らなければならないバ
スは、丁度出発している所であり、最早手を振ろうとも要らぬ恥を掻く所まで来ている。彬はどうする事も出来ずに、
その場に立ち尽くすと茫然としながら空を見上げた。朝が来た事を喜ぶかのように縦横無尽に飛び回る雀達が、楽しげ
に唄っている。それとは正反対に一気に気分が沈んでしまった彬には、その歌声が嘲笑のように聞こえて仕方がなかっ
た。 @

「はあ……初日から遅刻か」

 最早バスの稼働音さえ聞こえなくなり、彬は項垂れながら閑散としたバス停を目指して歩き始めた。自宅から走り通
しで来たので、汗で着ているシャツが身体に貼り付くのが実に気持ち悪いが、今更後悔しても後の祭りだと云うのは自
明の理であった。結局、彬は何もかもを諦めて、俯きながら歩く。陽射しは相変わらず厳しいが、それも今の彬にはど
うでも構わない事であった。それよりも、如何に現実染みた遅刻の言い訳を考える方が幾らか正しいと思っていた。

「初日から寝坊なんて、良い度胸してるのね」

 びくりと彬の肩が跳ねる。聞こえるはずもない声が聞こえたのだから、一種物の怪の類にでも遭遇した気分であった。
だが、恐る恐る顔を上げてみれば、それを現実だと思わなければならない証拠が目の前にある。俯いていた所為で今の
今まで気付かなかったのかと考えると、彬は自分が心底間抜けだと思わざるを得ないが、初日から遅刻を確定させてい
るのだから、それも当然であった。元より目の前の人物が自分を罵るのは目に見えている。

「おはよう、琴音」
「何を呑気に挨拶してるんだか……私が起こしに行かないと本当に駄目なのね」

 どうせ罵られるのなら、いっその事爽やかに接してやろう、と云う彼の目論見は西条琴音の心底呆れたような声音で
紡がれた言葉によって一蹴され、追撃と云わんばかりに軽く額を突かれ、彬は申し訳なさそうな顔をして琴音を見遣っ
た。烏の濡れ黑羽――或いは漆を塗った陶器のように艶のある黒髪を腰まで伸ばし、端正な顔立ちの中にある切れ長の
目を細め、僅かに頬を膨らませて見せる彼女の姿は可愛らしい愛嬌があるが、幼馴染として殆ど毎日顔を合わせている
彬にとっては別段気に掛かるような事ではなく、彬は「どうせ僕は琴音が居なきゃ起きれないよ」と投げ遣りに云った。
 高杜神社の巫女を遣っているのも、彼女が生真面目な理由の一つなのだろうが、昔から常に姉のように在り続けよう
としているので、彬は彼女の指摘などに反論はしない。実際、こうして自分が遅刻するのも厭わずに待っていてくれた
りする、この関係が心地良くも思っていた。だが、何時見ても巫女服を着た琴音と、制服を着た琴音とで全く違った印
象を放つ姿は、拭い切れぬ違和感を彬に与える。今回もその例に漏れるような事は無かったが、口に出す事はしなかった。

「はあ……しかも汗だくじゃない。タオル貸してあげるから、せめてそのみっともない顔何とかしなさい」

 そうして顔面にタオルを押し付けられる。彬はそれを受け取って、一言礼を云ってから遠慮なく顔中を伝う汗を拭い
始める。今日中に返さないと絶対何か云われるな、と心中に呟かずには居られなかったが、それも新しく湧いて出た疑
問によって瞬時に忘却の彼方に置き去りにしてしまった。

「そう云えば、先に行ったんじゃなかったの?」
「彬が時間通りに来ないから、待っててあげたのよ。お陰で色んな人の話を聞けたわ。髪の毛を切ったとか、仕事の手
伝いがどうのこうのとか。この暑い中、本当に色んな話を聞かされたのは誰の所為なのかしら」

 何ともなしに尋ねたつもりだったが、皮肉ばかりを強調させて、大袈裟に首を振って見せる琴音を見ると、ありがた
さよりも先に苛立ちが募ってしまう。が、此処で何かしら反発しよう物ならあらゆる脅迫や理屈で押し込められるのは
長い付き合いで承知している事である。彬は敢えて何も反発せず、わざわざ待っていてくれていた事に対する礼と、待
たせてしまった事に対する非礼を詫びた。琴音もそれで満足したようで、笑顔で「よろしい」云った。

「但し、今度何か奢ってね」

 彬はそれを云って、楽しそうに笑う琴音を見て、嘆息を一つ落とした。丁度次のバスが近付いている。厳しい陽射し
は、先刻よりも心なしか強くなっている気がする。彬は、学校初日から幸先の悪いスタートを切ったな、と頭上に広が
る蒼穹に向かって呟いた。――やがて早く乗りなさいよ、と云う声を聞き、彬は冷房の利いた車内に乗り込む。時刻は
完全に絶望的な数字を表しているが、座席に腰を降ろして楽しそうに何を奢って貰おうだの、何時奢って貰おうだのを
楽しそうに話す幼馴染の姿を見ると、自然とどうでもよくなって行くのであった。



――続


122 :twin ◆wQx7ecVrHs :2008/09/03(水) 01:06:24 ID:ui86OJKz
 投下終了。
 >>73とリンクして>>76を参考にさせて貰った。



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最終更新:2008年09月05日 18:59