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『杜を駆けて』 ◆k2D6xwjBKg :2008/09/12(金) 01:49:42 ID:hwJEMsq0
6-1
近藤が夕刻のライトアップを終えた。
「そっか…お義母様、やっと退院か… 弥生さんも、大変だったね…」
ヘレンはカウンターでコーヒーを待つ、珍しくスーツ姿ではない弥生に話しかける。
税理士事務所に勤務する坂田弥生は四年前に夫を交通事故で失い、以来夫の母であるハツエと、一人息子で小学六年生の剛と暮らしていた。
義母のハツエが腫瘍の手術の為、高杜市民病院に入院し、ずっとハツエに任せきりだった家事をこなしながら仕事を続けていた弥生は、義母を見舞う帰りのごくわずかな時間を、この『カフェ リトルフォックス』で過ごすのを唯一の息抜きとしている。
「それがね… 主治医の先生は、まだ様子を見たい、っていうんだけど、剛が、息子がね、今年の秋祭りで、『杉登りの先手(さきて)』に決まったって聞いて、『先手だ、うちの剛が先手だ』って…」
近藤の出したコーヒーの芳香に、思わず弥生はすこし言葉を切って陶然と目を閉じた。
「そりゃもう、寝ても覚めても『先手、先手』で、祭りまでに動けるように、って、強引に退院しちゃったんですよ。」
カウンターから出て、弥生の隣りに腰掛けたヘレンは、首を傾げて尋ねた。
「『先手』っていうのはどんな役割なの?」
近藤がBGMを少し落とす。どうやら彼も『先手』に興味があるらしい。
弥生は時計をチラリと見ると、一口、コーヒーを啜り、ヘレンと近藤に語り始めた。
「全部、お義母さんの受け売りなんだけどね…」
『紫阿童子の演舞』のクライマックスは、なんといっても童子と魔物の最後の攻防である『杉登り』だ。
『杉登りの紫阿童子』に選ばれる児童は三人。それぞれ『先手(せんて)』『中手(なかて)』『後手(あとて)』と呼ばれる。
舞台の中央に、童子に恩を受けた狐の一党を演じる児童によって高々と支えられる、枝を落とした二間(約4m)もの杉の木の頂きには、姫が魔力によって姿を変えられた一輪の椿の花が乗っている。
『杉登りの紫阿童子』は姫を救わんと、これをよじ登る。狐と魔物は争い、杉の木は激しく揺れ動く。
トップバッターである『先手』が首尾よく椿を手にすれば、その年は大豊作とされ、転落等の失敗がおこると、いわば『控え』である『中手』『後手』が順次挑戦し、いずれも不首尾であれば後に続く『婚礼の幕』はこの年中止となる。
度重なる市当局による安全面に関する指導がなされるなか、これからも花形たる『先手』は、高杜の少年少女の憧憬の的であり続けてゆくだろう。
はるか書房
『農耕と信仰』より
まだぎこちない太鼓と笛の音が止まぬ高見神社の境内。
ようやく主役らしい台詞がすらすらと出るようになってきた将也と柚季は、休憩の合図と共に、配られた団子を頬張って、涼しい神社の縁側へ腰掛けた。
「…しかしなんで主役の俺が『杉登り』だけ『後手』なんだよ!?」
憤懣やるかたないという調子で将也が愚痴る。
くたくたに疲れた様子の柚季は、よく乾いた板張りの縁側に仰向けに寝そべり、眠そうな声で答えた。
「高小の剛クン…だっけ? あの子もここの氏子だからね… つかれたぁ…」
祭りに参加する小学生は多忙だ。特に『童子と姫』は本番の二週間前から下校後、この高見神社に陽が落ちるまで缶詰めになる。
「…いいじゃない、『先手』が上手くやってくれたら、『杉登り』の間、将也は休めるんだから…」
「いや!! 高小のヤローも、『中手』の伊東もすぐ転がり落ちる!! 結局、俺が一番いいとこ全部もってくんだよ!!」
延々と豪語する将也に、柚季からの答えはなかった。
「柚?」
将也の横で、柚季は眠っていた。校章の入ったTシャツが捲れ、ちらりと見えたへそが寝息に合わせて上下している。
つい先日、柚季が事故にあったと聞いた瞬間の、どす黒い戦慄を将也は思い出す。
『こいつといるのが、あたりまえなんだよな… 俺…』
素足を投げ出しすやすやと眠る柚季を、将也はとても愛しく感じた。
Tシャツの裾をそっと直してやり、休憩時間が終わるまで、ずっと寄り添って、その寝顔を眺め続けていた。
続く
最終更新:2008年09月12日 20:25