391 :夏の残り香 ◆HdhN8f97gI :2008/09/13(土) 20:19:59 ID:CRFrkVep

 学校とは、チャイム一つで雰囲気がガラリと変わる場所だ。授業時間終了の音が鳴り終わるとすぐに、校内は喧騒に支配される。
 授業という、学生にとって戦いとも呼べる時間を乗り切るために与えられた、束の間の休息。
 楽しげな談笑や騒々しい会話に没頭するし、辛苦に満ちた戦場を一時的に忘れ去る。
 中には、次の戦いに向けて修練に励む者もいる。
 教科書、問題集、参考書。それらの武器を血肉と化して、来る戦に備えるのだ。
 机に突っ伏し、英気を養う者だって少なくない。消耗した上で乗り切れるほど、戦いは甘くない。万全なコンディションを整えようとする彼らの選択もまた、有意義な時間の使い方だろう。 
 次なる戦闘開始のチャイムが鳴った瞬間、学校は戦場に姿を変える。リスクなしに逃れる術など、ありえない。

 ……まぁ、僕は本日の初戦と二戦目をブッチしたけどさ。

「はぁ……」
 思わず零れた溜息が、思考を現実に引き戻す。今は、亀の歩みで教室に向かっている最中だ。
 穏やかな喧騒が、僕の耳に入っては通り抜けていく。楽しそうな響きは、僕の中に留まってはくれなかった。
 随分とアホな妄想をしていたと、我ながら思う。
 そんな下らない空想に意識を任せていたのは、ぐるぐる回る悩みを追い出すためだ。
 訳の分からない電波妄想に脳を浸していないと、ヘタレ心が顔を出して、また教室から足が遠のいてしまいそうだった。
 宮野先輩と話をしている間は、何の問題なかった。
 でも、別れて一人になって教室に向かおうとするや否や、不安や憂鬱が鎌首をもたげてきたのだ。
 一人だとよくないことを考えてしまう、という先輩の呟きが脳裏に甦る。至言ですね、宮野先輩。
 教室が近づくにつれ、足取りが重くなる。このまま教室の前を素通りし、昇降口まで行ってしまおうか。
 そんなヘタレ誘惑に少しだけ心が揺らいでしまったとき、向こうから歩いてくる中肉中背の男子生徒と目が合う。
 クラスメイトの、岸原敦彦だった。

「お、啓祐じゃんか。ガッコ来てたんだな」
 そいつが僕を呼びつつ手を挙げてきたから、僕も反射的に手を挙げた。
 茶色がかったくせ毛が特徴的なそいつは高校に入ってからの友人で、よくつるんでいる男だ。 
「始業式を休んだ上、二学期早々重役出勤とは、夏の間に不良になっちったか? 素行不良が学園長の耳に入ったら大変だぜ?」
 不良云々はともかく、学園長の話は笑えなかった。
 始業式欠席は連絡を入れたからよしとしよう。だが、さっきのサボタージュが学園長の耳に届いていたとすれば、ご指導を受けざるを得ないだろう。
 未だ一度も学園長直々のご指導を受けた経験はないが、噂では相当お厳しいらしい。
 ご指導を受けた学生の中には、トラウマを植えつけられて、学園長のお姿を拝見するだけで震え縮み上がってしまうようになってしまった奴もいるとかいないとか。流石に誇張表現だと思うけどさ。
「たった今まで夏休みは続いてたんだよ。僕の中では」 
「気持ちの切り替えが出来ていないダラけた啓祐に、面白い話を教えてやるとしよう。始業式に遅刻してきた奴らが、式中に公開説教をされたお話だ」
 敦彦の言が嘘や冗談でないのなら、どうやら、学園長伝説に新たな一ページが追加されていたらしい。
 正直、聞きたくない情報だった。
「遠慮しとく。笑えないから勘弁して……」
「安心しろ、笑えないのは啓祐だけだ。つか、お前凄い汗だな。走ってきたのか?」
「そうじゃないけど。色々あって、さ」
 屋上で日光浴をしてた、とは言えなかった。
 変な目で見られるくらいならまだいい。理由の追究が始まってしまうと、色々話さなければならなくなる。
 まだ気持ちの整理や感情の処理が少しも出来ていない。
 尋ねられれば誤魔化せないのは分かっているから、はぐらかせるうちに曖昧にしておいた。
 それでも、僕は自然と敦彦から視線を外していたんだけど。
 嘘は、苦手だった。
「……ふーん。ま、いいけどな。とっとと教室行こーぜ。深谷も沢口も、お前のこと気に掛けてたぞ」
 深谷と、沢口。
 その二人に敦彦と僕を加えた四人が、いつも集まって遊んでいる面子だ。
 だから彼女らの名前を出したことに、深い意味などなかったと思う。
 それなのに、僕の心が縮み上がった。沢口の名に、敏感になりすぎていた。
 沢口に気に掛けて貰えるなんて、震えるくらいに喜ばしかったはずなのに、今は切なくて仕方ない。
 胸が痛み、肺に重い空気が溜まってくる。心臓が拍動するたび、憂鬱さが広がっていく気がした。
 もう二度と、沢口の気持ちを喜んで受け取れる日は来ないのだろうか。
 寂寥感が渦を巻き、僕を飲み込んでいく。ちっぽけな僕は、それに抗えず流されるだけ。
「ほら、ぼーっとしてないで、行くぞーっ」
 敦彦が、僕の汗まみれになった背中を押してくる。暑いのにご苦労様だ。
 その元気さが羨ましく、そしてありがたい。
 押されるがままに廊下を進めば、あっという間に教室まで辿り着く。それでも、敦彦の勢いは止まらない。開け放たれたドアを潜らせようと、ぐんぐん僕を押していく。
「ちょっと、敦彦、待って――」
 制止を試みるが、間に合わない。心の準備も、沢口に会ったときのシミュレーションもできないまま、僕は穏やかな喧騒に満ちた教室に入れられた。
 約一ヶ月ぶりの教室。休み中に何度か顔を合わせた奴もいれば、全く会わなかった奴もいる。
「おーっす。久しぶりだなあ!」
 豪快に声を掛けてきたのは、学級委員の牧田君だ。貫禄のある笑顔に、懐かしさを覚える。
 牧田君に挨拶を返しながら、さりげなく教室中を見渡す。日焼けをしたり、髪型が変わっていたりで、雰囲気が随分違う奴も少なくない。
 夏休みを終え、少しだけ新鮮な級友たち。沢口の姿は、見当たらない。
 安心した自分が、憎らしい。
 楽しげに談笑するクラスメイトの中から、見慣れた女子が駆け寄ってきた。 

「体調崩したって聞いてたけど、もう大丈夫なの? 夏風邪引いちゃうなんて、米倉って実はバカだったの?」
 瑞々しい髪をベリーショートに切った、ボーイッシュな女の子が尋ねてくる。口調の端には毒が交じっているが、もう慣れているし気にならない。
 彼女の名は、深谷真奈子。僕や敦彦、そして、沢口とよくつるんでいる、友人の一人だ。
 爽やかな外見通りに明るく、自分の考えをストレートに口に出す奴だ。ストレート過ぎて時々毒を吐くが、悪意を感じさせないのがこいつの凄いところだと思う。
「まあ、ね。バカだとは自覚してるよ」
 質問の後半にだけ、答える。最初の問いに答えなかったのは、大丈夫だと言い切る自信がなかったからだ。
「そうかー。ま、バカでも生きていけるから元気出せ。あたしだってバカだけど、元気に生きてるよー」
 深谷は快活に笑い、僕の肩を叩いてくる。その様子は確かに、少しバカっぽいが、不快感を伴わない。 
 そもそも、深谷はバカなんかじゃない。頭の回転は速いし、成績だって悪くない。苦手科目に限っては赤点に近い成績を出すときもあるが、その程度ではバカと呼べない。
 まぁ、単純な奴だとは思うけど。
「いや、お前がバカだったら俺はどうなる? バカの中のバカとか、バカの王になってしまうじゃないか?」
 僕と同じことを考えていたのか、敦彦がツッコミを入れていた。
「岸原はバカっていうより、やれば出来る子。でも、やらないからダメな子だね」
 深谷の切り返しを聞き流しながら、ふと、思う。
 沢口は、僕の愚行を深谷に話しただろうか。
 沢口と深谷の付き合いは、小等部の頃からだと聞いている。実際、二人はめちゃくちゃ仲がいい。前にアルバムを見せてもらったが、彼女らはいつも同じ写真に映っていた。
 誰にも言えない話もできる仲なのは、間違いない。
 沢口の性格上、僕の愚かな告白を面白おかしく語ったり、雑談のタネにはしないだろう。
 でも、相談事としてならば、話している可能性はある。
 たとえば、告白を断った相手とどうやって付き合っていけばいいか、とか。
 ……考えただけで、死にたくなった。
 鬱に片足を突っ込んだ僕。出そうになる溜息を我慢し、何気なく引き戸の外に目を向けた。
 すると、丁度誰かが入ってきたところで――。

 心臓が、弾かれたように大きく跳ね上がった。
 慣用句ではなく本当に、心臓が口から飛び出しそうだった。

 教室に入ってきたのは、肩まで伸ばした黒髪に、黒いヘアピンを付けた女の子だった。フレームの薄い眼鏡の向こうにある瞳は大きく、ガラス玉のように綺麗だ。
 派手さは皆無で、素朴な印象を全身から醸し出している。
 小柄で華奢な体つきをした彼女は、小さな両手でピンク色の携帯電話を握り締めていた。
 彼女は相変わらず可愛くて、堪らなく魅力的で、だからこそ、僕の胸を締め付けて止まない。

 大好きな、女の子。
 沢口名希が、僕を、じっと見つめていた。

 急激に脈拍が増加し体温を上げていく。
 汗が掌を滲ませ背筋を伝い落ちる。
 筋肉が強張り体が動かせない。
 カラカラに渇いた喉からは声が出せない。
 極度の緊張感に支配されて頭が真っ白になる。
 暴れまわる心臓の音が聴覚を埋め尽くしていく。

 それでも鼓膜は、しっかりと彼女の声を、拾う。 

「米倉、くん……」

 沢口の小さな口が、僕を呼んだ。
 返事をしなければならない。何か答えなければならない。
 なのに体は言うことを聞いてくれない。呆けたみたいに口を開けているだけだった。
 ぐちゃぐちゃになった感情が心を荒らし、僕から冷静さを奪っている。
 悲しくて、苦しくて、切ない。
 そのくせ、嬉しくて、愛しくて、大好きで、訳が分からなくなっていく。
 ごちゃまぜになった感情が、巨大な津波となって押し寄せてくる。受け止めるには、あまりにも大きすぎた。

「さっき、米倉くんの携帯に電話したの。繋がらなかったから心配だったけど、来てたんだね」

 ピンクの携帯を掲げ、沢口が笑ってくれる。素敵な笑顔なのに、見ていられない。
 だから、目を背けた。本当は、もっと見ていたいのに。
「……ごめん」
 目を合わせずに短く謝るのが、精一杯だった。
 携帯は今も、ポケットに入っている。ただ、電源は切ってあった。
 心配の詰まった沢口からの連絡を、受け取るのが辛かったから。
「ううん、いいの。気にしないで。その、わたしの方こそ……」
 尻すぼみになって言葉が消えると、沢口も口を噤んだ。
 気まずい沈黙が、僕と沢口の間に横たわる。
 少し歩けば触れられる距離にいるのに、足掻いても手が届かない気がした。
「啓祐? 沢口? どしたんだお前ら?」
 敦彦が首を傾げて聞いてくる。
 深谷は黙ったままだったけど、心配そうに僕らの顔を見比べている。
 答えられずに、黙りこくる。沢口も、困ったように口ごもっていた。どちらも言葉を発さない。
 そんな僕らの代わりというように、授業開始のチャイムが鳴った。
 それでようやく、体は自由を取り戻す。でも僕が取れる選択肢は決して多くなくて。
 逃げるようにして踵を返すだけだった。
「お、おい! 啓祐!」
 敦彦の呼び声が投げ掛けられるが、振り返りも答えもせず席に向かう。
 夏休み前の席と変わっていないのが、救いだった。






394 : ◆HdhN8f97gI :2008/09/13(土) 20:25:23 ID:CRFrkVep
以上、投下終了です。

今回登場したキャラの紹介を書いておきますね。
皆さんの物語を彩れるキャラになれば幸いです。

岸原敦彦(きしはら あつひこ)
  • 高校二年、帰宅部。
  • やらないからダメな子。でもやれば出来る子。成績はよくない。
  • 少し茶色がかった髪、くせ毛。中肉中背。

深谷真奈子(ふかや まなこ)
  • 高校二年、帰宅部。沢口の幼馴染。
  • 単純で、考えをストレートを口にする。バカっぽいが、頭の回転は速い。
  • ベリーショートでボーイッシュ。

沢口名希(さわぐち なき)
  • 高校二年、帰宅部。深谷の幼馴染。
  • 大人しくて気弱。真面目で細かいことを気にするタイプ。
  • セミロングの黒髪。小柄で痩せ気味。近眼で、フレームの薄い眼鏡をしている。ヘアピンで前髪を留めている。

牧田(まきた)
  • 高校二年。学級委員♂。今後登場する予定はない端役。






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最終更新:2008年09月28日 19:02