その獰猛さを抑えながら、未開の地の異邦人は土地を拡げ、その首都から潜在的にやっかいな統率者を退けようと努めるにつれて、律令制度においてとても優位にたっていた。
政治的支配が北方に拡がったので、789年と878年に重大な蝦夷の戦争が東北北部で勃発した。
阿部家と清原家は、その地方の最終的な和解と律令の権威の最も広い拡大を示しながら、11世紀から東北の奥羽(おうう)地方の支配者となった。
ところが、この権力は絶対的なものではなかった。
これらの強力な一族の支配者は、平安王室(794-1185)との非常に弱いつながりを強調するために、潜在的には”従わない者たち”という意味の言葉を用いて蝦夷(えみし)とも呼ばれていたのである。
この呼称は平泉の藤原、後に、1185年に鎌倉幕府がたてられたあとまもなく源頼朝に敗れるまで全地域を支配した者である、にも好まれていた。
本州全土を名目だけの支配に含めた最初の行政である鎌倉幕府とともに、蝦夷(えみし)という言葉は蝦夷(えぞ)に取って代わられて慣習から姿を消した。
それから先、蝦夷(えぞ)が津軽海峡を横切る島、つまり蝦夷が千島(えぞがちしま)の”外国の”住人を明確に言及するようになったので、蝦夷(えみし)の使い方における固有の多義性も姿を消した。
蝦夷(えぞ)は文化的にも言語学的にも蝦夷(えみし)とは異なっていた一方で、その言葉に固有の野蛮の言外の意味はそのまま残り続けていた。
確かに、蝦夷(えぞ)は単に、蝦夷(えみし)と書くのに使われるのと同じ漢字の新しい発音のしかたであった。
蝦夷(えぞ)の他に、この地方の住人は’いじん’や’いてき’、それは蝦夷(えぞ)の二つ目の漢字の音読みを組み入れて書かれたものである、としても知られていた。
最終更新:2008年07月01日 01:01