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これらの出来事が起きたのは、織田信長が掴み取りその後継人である豊臣秀吉や徳川家康により続いたのち17世紀初めに統合された政権となった権力闘争とはかけ離れていたけれど、蝦夷が島やその地の未知なる住人に関する知識は本州の限られた人達の間で正しく広まっていたことを証拠が示している。1548年、蝦夷が島から1000マイル離れた鹿児島出身のある日本人がゴアに進み、その地でイエズス会修道士たちに日本北部に死をも恐れず勇敢に闘った巨大でヒゲを生やした原住民が住む「Gsoo」(蝦夷)と呼ばれる地があると伝えた。この時初めて欧州人はアイヌ人の存在を聞いた。1591年、また別のイエズス会修道士イグナシオ・モレーラは京都にあった秀吉の城を訪ね、そこで彼は蠣崎(かきざき)派遣団に同行していたあるアイヌ人男性と出会った。この男は修道士に、自分がアイヌ人が自身の住む地域に対して用いるアイノモショリ()と呼ばれる島の出身であると伝えた。やや後に、アイヌ人に関するより一致した情報が1669年のシャクシャインの戦いの後本州の主要な都市施設に伝わり始めると、それはしばしば旅行者による扇情的で空想的な報告だったが、著名で人気の高い脚本家の近松門左衛門が「賢女の手習い」(賢い女の学習:1685年)で蝦夷が島について書き記した。

このいわゆる蝦夷が島は1000里以上彼方にある。この島に生まれたもの誰もが生まれつきの立派な力を持つ。髪の毛は上へ伸び、目の輝きは金色の朝日のようである。この者達の雄たけびは動物たちをも恐れさせる。魚と同様に、山や野の動物を狩り、食す。良いワインや美女とたわむれ、贅沢に生きる。法も無く、だらしない日常の奇妙な国である。

政治的現実におけるのと同様、大衆の意識において、アイヌ地域は「外国」の土地であった。




野崎
最終更新:2008年05月10日 20:42