交易はおもに”uimam”という形式で行われた。それによりアイヌ人は松前に”年貢”を納たり、”見返り”をもらいに本州の貿易商に会いに行った。アイヌ人の交易商はいまだにサハリンやamurの北部と同様に東北を訪れる。貿易の余りを生産することや行くことを決めるのはアイヌ人のコミュニティーしだいだから、交渉の主導権は常に彼らの手に握られている。この状況を逆転させ、交渉の制御をするために17世紀初期には、松前藩は「商い場」として知られているアイヌ人の土地に、一連の交渉するための役職を設けた、そしてアイヌの人々は松前藩と交易をしたくなくなった。松前藩は貧乏な藩だった、そして下級家来は米で俸給を受け取っていたけれども、偉い人たちはこれらの交渉役やそれに伴う交渉地の権利を、独占的に与えられていた。これらの有力な家来は知行主として知られている。「商い場」からの産物は管理と課税を行う松前の港から制限された本州の貿易商に交換された。この制度は交易の規模を大きくし、それにより松前藩は積み荷にかけられる税で利益を得、後の江刺や函館も同じような制限つきで開かれた。1664年以降では、アイヌ人の船は東北の港ではもう見られなくなった、松前藩の成功の兆候は貿易を独占しようとしたことだ。はじめのうち、松前藩は自国の小さな7隻の船団で運営していたが、藩は次第に本州、とくに近江(現在の滋賀県)からの交易商に頼るようになっていった。彼らは松前では作れない生活に必要な物をすべて持ち込んだのだ。たとえば藩では1年間に5500バレルの米が必要だ。そのうち松前藩とその家来たちには20%持っていった。RyohamagumiやYawatagumiのような近江貿易商の集落1630年代から松前藩の役所の周りに建てられ始め、知行主やそれ自身の元締めに金を導き始めた。借金が増えるにつれ貿易商はアイヌと交易をより行えるようになった。リスクと利益により交易商たちはアイヌから搾取した。たとえば、蝦夷俵の大きさ、蝦夷地交易で使われていた輸送に都合のいいように特別小さな米俵であるのだが、これはアイヌ社会が依存するようになった和人商品の1つの主要生産物の価格の上昇の影響で減らされた。
島の王(おそらく蛎崎慶広(かきざきよしひろ)でろう)の時代での、交易の状態は米1袋で干した鮭2匹から5匹であった。最近、彼らはたった7升か8升の米で、同じ量の魚とかえ始めた。我々には拒否する力がないので、彼らがのぞむままに従わなければならない。
最終更新:2008年05月10日 23:29