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この時には、日本人は蝦夷が島に渡り始めていました。
初めに渡った人の一部は、十二世紀前半に首都から追放された殺人者でした。
他の人々は、当時の東北特有の互いに殺しあう戦争に敗北した後、海峡を渡って逃げてきたのでした。
伝説に加えて、最も有名な逃亡者は源義経であり、彼は平泉での虐殺、そして復讐心に燃えた兄上からの敗走を生き残り、
海を渡り、しばらくの間アイヌの人々と生活し、作物の育て方を教えた。
鎌倉幕府は安藤家を津軽地域の支配者に指名してその場所から、彼らの影響力を海峡を越え北海道まで広げた。
安藤家の出身の者は、後に秋田の上院であるが、彼らが地元蝦夷かサツモンの支配者であると主張する学者たちによる
話し合いのテーマになっている。
安藤家の本拠地は津軽の十三港で、そこは日本の貿易の航路の重要な部分であり、北海道に住むサツモンとアイヌの人々は
鮭、昆布、毛皮、満州の品物を貿易しにここへ来て、そしてそれらは本州中心へと運ばれた。
1356年の書類にはワタリトと呼ばれる日本人とアイヌ人の混血集団がいて、北海道の南に位置するオシマ半島に住み
津軽の人々と貿易をしているようだと書かれている。
室町時代の初めのころ、十三港は多くのアイヌのウイマンチップ貿易船が寄港する成功した港であった。
十五世紀半ば、隣接する南部の集団との対立で安藤家が津軽の支配力を一時的に失った時、
北海道へ渡り、秋田に再び戻ってからもその地から北海道の倭人の移住者を支配し続けた。
最終更新:2008年05月20日 01:44