この戦争は現在一般的にアイヌ人と和人の単なる「民族的」対立として解釈されている。しかしながら、17世紀中ごろの事に20世紀の考え方を強制的に当てはめることは深刻な歪曲を引き起こしうる。証拠によれば、はるかに複雑な実像を示唆している。同時代の情報源におけるアイヌ人の地域別集団化の繰りかえし言及されることは、アイヌ社会が一種の政治的統合を経ていたと信じることができる根拠があることを示している。しかしながら、このことは国家建設やアイヌの「民族的」帰属意識の形成と同じではない。アイヌ人同士の紛争はこれらの集団がしばしばお互いを競争相手や敵とみなしていたことを示している。松前藩はいくつかの強力な勢力の中のひとつであり、忠誠関係は流動的であった。たとえば、時にはアイヌの兵士が以前には1591年には秀吉に対抗する九戸マサザネを倒すために東北で柿崎軍の中で戦った、というように。日本の周縁領主たちの伝統において松前藩でさえ自分たちを必ずしも日本人だと受け止めていたわけではなかった。1618年には、松前キミヒロ大名は訪れていた使節のジェロニモ デ アンジェリスに、「松前は日本ではない」と断言した。同時代の記述も、シャクシャインの同盟者の中に4人の和人がいたとも言われている。島原の乱後の本州での迫害から逃れてきた坑夫たちがたくさんいたので、彼らはキリスト教徒だった可能性がある。別の視点では、松前藩によるアイヌ人の交易における独占を打破することと利益を分かち合うことを切望していて、本州との直接的な交易の繋がりを再構築できることを望んでいたシャクシャインに支持されていた、日本海沿岸の別の藩の交易者とも考えられる。和人の中の一人はシャクシャインの娘婿であったが、このことはいくらかの和人の同盟者と交易者がアイヌの血縁関係かもしれないということを示している。
最終更新:2008年06月23日 06:52