アイヌの歴史の空白が、歴史家達に日本の勢力伸張の変遷に対する注意を促してきたとは言え、アイヌ社会それ自体が静的乃至は受動的であったわけではなかった。貿易の影響下に於いて、幾つかの河川流域に属するアイヌのコミュニティは、互いに戦う為の、襲撃グループ:あるものは恐らく火気を所有していたかもしれない を率いることが出来るような指導者達により導かれて、より大きな諸集団へと融合していった(?)。アイヌの人口密度現在の北海道南部の日高地域に当たるところに於いて最高であった、というのも、降雪が少なく、鹿が豊富であったからである。この地域は、Onibishiに率いられていたShumkur、Kamokutainの下のMerosh(un)kurという2つのアイヌの地域集団の間の教会によって大まかに二分されていた。1648年には、アイヌ社会ではとても重く取られる一連の領土侵犯を巡っての、2グループの争いが勃発した。日高地域での貿易に関する恐れと、金の採取への興味があるにはあったが、松前氏は調停の申し出以上のことをするには非力であった。Kamotainが1653年に殺害された折に、ShakushainがMenashunkurのリーダーとなった。1655年にShakushainの手の者達がOnibishiと倭人の坑夫たちとの協議中に奇襲を仕掛け、Onibishiを殺してしまうことになるまで、紛争が散発的に起こった。(Onibishi殺害を受けて)Shumnkurは甚大な被害を受け、松前氏に補助を申し出るも、松前氏はアイヌの戦争には干渉しない、といって調停を拒絶した。現実的には、松前氏は余り富んではいず(?)軍は弱小であった。例えば1777年に行われた調査では、松前氏が治める人口は26500人で、そのうち足軽を含む武士の数はわずか170人であったことが明らかになっている。
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最終更新:2008年07月04日 21:52