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日本の影響が千島列島の南の島々に広がっていたのとおよそ同じ頃、ロシアの
探検家たちや商人たちは、千島列島でますます活発に活動するようになった。占
守島は千島列島の最北に位置し、ロシアによって1730年に初めて植民地化された
。また、1749年までに、アイヌとカムチャダイの混合された土着民族のほとんど
は、ギリシア正教徒として洗礼を受けた。ギリシア正教が南に広がっていくにつ
れて、千島列島の南方でのロシア人による課税、時おりのさらなる重税の容赦な
い強制によって、現地のアイヌは怒った。そして1771年、彼らはウルップで
ロシア人集団を虐殺し、ロシア人の影響をわずかの間現地から遠ざけた。しかし
、ロシア人はすぐに舞い戻り、1792年、アダム・ラクスマンが根室に上陸し、日
本との貿易関係を開くことを要求した。許しは得られなかった。江戸では、蝦夷
地の併合についての議論が、周知であったロシアの脅威に主に刺激されて、急速
に進んでいった。使者と探検家が幕府(と雄藩の水戸藩のような、たの興味深い
(?)集団)によって、北方地域を調査し、ロシアと松前藩を密かに探るために
派遣された。これらはアイヌの重要性を、労働力の源としてだけでなく潜在
的な協力者として認識していた。1798年、幕府はサハリンと千島列島を含む蝦夷
地に大規模な遠征を行い、1799年、地域を一部併合することによる松前藩の反対
を退けた。よって1807年までに、蝦夷地全土は箱館に創設された役所を通じて、
幕府の直接支配の下に置かれるようになった。現地のアイヌとアムール川の北方
の民族との交易(サンタン交易として知られている)を直接支配するために、あ
る役所は樺太における松前藩の以前の交易拠点に位置していた。しかしながら、
ほとんどの場合、蝦夷地は異国の土地そのままにされた。というのも、その
土地は広大で険しすぎるため、幕府の他の領地と同様に管轄できなかったからだ
。幕府は海岸線に拠点を置き、1806年と1807年にロシアの略奪者が樺太と択捉を
襲撃した後に、それらを強化した。しかし、ほとんどの倭人はまだ、松前藩の境
界線付近や漁場に居住していた。
最終更新:2008年06月07日 05:38