17世紀の始めに、幕府が国内統治を強化するにつれて、幕府はまた外交的で商業的な近隣諸国との接触を体系的に統制しようとし、文明や野蛮という概念における変質を導いた。
1621年、徳川幕府は対外関係において、中国を慎重に拒絶する「日本中心の華夷秩序」を構築しようとした。
そして1644年、明王朝が「野蛮な」清の手に落ちると同時に、文明化された中国と野蛮な日本という通説は、徳川幕府が優位であるという現実にもはやそぐわなくなったのだ。
1715年までに長崎の中国人は、貿易統制の中で「野蛮な」地位に貶められた(おとしめられた)。
山崎闇斎(やまざきあんさい)と山鹿素行(やまがさこう)は、中世の王国として、つまり、それ故に世界での文明化された価値観の入れ物として、日本が中国にとって代わることをどのように正当化するかということを議論する学者たちのなかに属していた。
この議題は本居宣長(もとおりのりなが)やその地の国学運動に関係する人々によって、新たな道筋を与えられた。
国学とは、中国優位の時代において大和文明を正当化しようとする試みへの反応として現れたものだ。
本居(もとおり)は儒教を認めず、日本書紀・古事記・万葉集といったほぼ忘れ去られた古代の古典文献に彼の教義の基礎をおいた。
彼はそれらの中に、儒教が根強く以前の日本の真の道理と本質的な優位性が明らかにされていることを見出した。
万世一系(まんせいいっけい)の天皇の血筋が、この道徳的優位性の生ける根拠とされ、それ故他の人々は野蛮とされた。
民族主義者にとって、日本の文化と慣習は日本の優位性の基盤だった。
始め国学は、徳川幕府の知識階級の間(?)では少数派であり、思想の転覆を謀る流れに過ぎなかったが、後にこれらの考え方は、攘夷思想(じょういしそう)をもつ水戸学校によって、よみがえった儒教と合流した。
これは、18世紀の終わりと19世紀の始めの外国人による侵入の増加に対する懸念による。
北方でのロシア人の出現は、蝦夷島(えぞがしま)とアイヌが今や徳川幕府の政治的勢力圏のなかで、最大の関心事であることを意味したのである。
ごめんなさいULASIS写しただけです。。。時間があれば修正したいと思いますが。。。
最終更新:2008年06月07日 15:52