農業に従事する移住者のために広大な土地が測量にかけられ、分割された。(植民地選定)。(アメリカの覆いを用いてではあるが、)北海道を本土であるとする見方を通じて、この測量は植民地化を合法化する過程におけるの重要な段階をあらわしている。実際の土地は地図に描かれ、名前をつけられ、その土地の所有権を主張された。ただし、大部分の土地の名前は実際にはアイヌ起源のものであった。(たとえば札幌はAinu sat poro pet という大きな干上がった川の名前に由来している。)農業に従事する移住者のために小区画地に分割された土地の格子状の区画にするという形により、「広大な土地」に対して区画整理が行われた。これらの土地は将来に希望を抱いている移民に対してアメリカの新聞の中で宣伝された。皮肉にもこの一連の工程はアイヌ人の労働者から調査チームに対して非常に大きな助けを得た。アイヌの人々は国内を歩き回ることになれていた。というのも、この土地は時期によっては重要な狩猟領域であり、そのため測量チームのために力を貸すことは農業をすることよりもずっと望ましいことであったためである。このようにして石狩平野は1886~1887年にかけて測量が実施され分割され(200,000町歩、ただし1町歩は0.99ヘクタール)、十勝・手塩・東方の低地地域は1888~1889年から(750,000町歩)、そして、1891~1900年の間にその他の小さな土地において350,000町歩を分割して、この工程はほぼ完成したのであった。大部分の土地が非常に強い権力を持った豪族の大農園のように取ってあった。特に1873年にランチ皇帝の創ったニカップにおけるものがそうである。
最終更新:2008年10月05日 21:28