徳川幕府の中には、違ったふうに主張するものもいたが、1855年の下田条約まで、蝦夷地は表向きには、Kaihoが言及していたように、「明らかな政治的に幕藩体制の外側:当時の言語を使う、外国の地域(イイキ)」としてみなされていた。これは、1609年、強力な薩摩藩によって併合され、中国との利益の得られる貿易をもたらし、そして、幕府に領地として所属していると認められていた琉球王国、後の沖縄であるが、の島とは対照的なものである。しかしながら、北方では松前ははるかに弱く、勢力のない藩だった。彼らの領地の範囲は、倭人地を覆うのみで、松前と本島の商人にとっては漁場が重要であるにもかかわらず、蝦夷地の広大な部分は北方にとって別個の、統一されていない地域だと考えられていた。幕藩状態の勢力に脅威を突きつけられたロシアの侵略を知ったとき、松前の不満に対して何の注意も払わず、幕府は蝦夷地に干渉し、併合する決心をかためた。
最終更新:2008年10月14日 11:55