当時、北海道は函館、札幌そして根室の三つの県に分けられていた。このことが、北海道が、他の地域と同じ行政の状態を持っていることを暗に意味している一方で、権力は県議会でなく、開拓士の働きを継続することで広げられていった。中央政権の複雑化の進行に、通信の困難が重なり、1884年からすべての北海道事業は農商務省の北海道事業管理局に委託されていった。この計画は伊藤博文の弟子で、政治家の金子健太郎によって、無能なものとみなされ、そして彼は、植民局という新たな北海道の植民政府の制度と西の国境に沿った開発を推進した。1885年に中央政府は太政官制から内閣制に再編され、そのとき、伊藤博文首相が北海道を一人の長官のもとにひとつの行政体系へとかえる機会を取った。道庁は正式には1886年に設立され、首相と内務省の直接の管轄下に置かれたが、開拓使が行ったときと同じような独立の程度を持っていなかった。1895年の台湾獲得に伴って、北海道は一時的に、北局と南局に分けられた拓殖務庁に移されたが、すぐに内務省の管轄に戻された。北海道は分割された警官隊を維持したけれども、中央省庁はしだいにそれらの北海道における各自の機能を乗っ取っていった。例えば1876年に設立され、後に北海道大学となった札幌農学校は、1895年に道庁の代わりに文部省の管轄下に置かれた。1890年に内地が大きく限られた参政権を得た一方で、北海道は、文化の低い発達とそれゆえに政治代行に不適当な遅れた地域と見なされた。1901年に北海道はついに弱い県の集合を受け取ったが、しかし国会議員を選ぶ権利は翌年まで拡張されなかった。そしてその年、3名が札幌、小樽、函館から選ばれた。北海道は、1888年に作られた地方行政体制には組み込まれず、1897年から1902年の間に独自の体制を確立したが、1927年まで内地の原型に適合しなかった。
最終更新:2008年10月26日 18:03