農業化政策、すなわち土地を移民たちに開放し、アイヌにたいする統御は強めるために、政府は解体したアイヌの共同体に、新しい入植地に組み込まれ、移住することを強制した。その入植地の多くはみすぼらしく貧しい土地であった。
このことは組織的ではあるが決して成功することのない分離政策の始まりを表すものだった。
このアイヌ民族に対する分離政策はアイヌ民族と後に人数の高まりをみせる入植者達との間の交流を頻度においても密接さにおいても減らし、入植者達と原住民との間の精神的な溝をさらにひろげる意味があった。
「原住民村」としての人工的な入植地を作ることは、他との身体的に明白な境界をつくることにもなった。
アイヌと倭人の共同体の分離政策それ自体は全く新しいものではない。バードは北海道南部における「混合村」
においてアイヌ民族が日本人たちから十分な距離をおいて生活しなければならなかったことを記していた。
最終更新:2008年10月26日 19:30