1886年に道庁が設立されて以来、北海道への一般の興味もまた増えていった。その土地(北海道)の開発に関する多くの記事が新聞や雑誌に現れるようになった(開拓論)。これらの記事は、戦略上の新たな重要地点(この時ロシアはシベリア鉄道を建設していた)として、また資本家の発展のための原料源のある土地として、そして過剰となった人口の少しを本州から移すための土地として、北海道に焦点を当てていた。この一般の議論や当時の政策への批判は、既存の移住政策への批評とあいまった、一連の公式な開発計画を生み出した。重要視されることが、貧しい人々を移住させるを援助することから、本州の資本を北海道の潜在資源を奪取するために使用することになった。ある種の刺激や援助は残っていたけれども、この時から、農業の発展が、安い土地を別のやり方で自立した移民に譲渡することを通して、追求されることとなった。長官が相当頻繁に交代する傾向があったが、ほとんどの長官は積極的に開発計画を押し出した。四代目の長官(1892~1896)であるキタガミクニミチは内務省の官僚で、支配者である井上馨と近い関係にあった。彼の政治活動の下で、港、鉄道、道路といった交通網が囚人労働者によって建設され始めた。井上自身も1893年に北海道を訪れ、翌年の彼の報告書は開発政策の形成に影響を与えた。
最終更新:2008年11月09日 19:33