北海道が植民地であったのは、政治的そして経済的な構造においてのみではなく、地方社会は構造と発達においてはナイチとは全く異なっていた。1950年に日本が樺太を取り戻すまで、北海道は国における未開の辺境であった。そこは犯罪者がたくさん送られる場所でもあった。世紀末には人口が100万近くにとどく開拓使の設立に伴って人口が6万近くまで昇る間に、100:85の割合で男性が女性よりも数が多かった。売春が広まっていた。娯楽地域の札幌は悪名高く、アルコール中毒が深刻な問題であった。がさつな辺境社会に特有なそのような社会問題により、北海道は日本において、宗教団体や女性の団体を基とした市民運動の高まりが見られる最初の地域のひとつとなった。1887年、北海道キンシュウカイ(北海道節制社会)がアルコール中毒と戦うために設立された。女性キリシタンの団体である札幌婦人教布会は、女性の福利と男女間の適切な関係を求めて運動を起こし、結婚における道徳的な対応を求めた1889年の新聞広告の中では300人のメンバーを求めた。札幌農業大学は、ウィリアムクラーク氏の短期滞在の後にキリスト教信仰の中心となり、新渡戸稲造や内沼鑑三のような著名なキリシタンの知識人をたくさん輩出した。1880年代と1890年代に北海道がナイチと共有した特徴の一つは、政治における行動主義であった。札幌、小樽そして函館の組織は県の集団の設立と国会議員を選出する権利を求めて運動を起こした。そのような運動は、1887年の治安条例と1900年の平和保安法の制定のあと、権力によって妨げられ悩まされた。
最終更新:2008年11月16日 16:19