然しながら、開拓使に関する主なアイヌの問題はロシアとの国境決議に起因した。樺太を千島列島と交換するという日露間の1875年の条約の結果、841人のサハリンアイヌ人は宗谷(そうや)に再配置され、そしてその翌年再び石狩川の対雁(ついしかり)へ移された。これらのアイヌ人たちはサハリンでは日本人請負人(契約者?)の下で働いており、彼らの自給自足の生活様式は大部分が破壊されてしまった。しかしながら、その条約の条項により、先住民族はどちらの国家に属するか選ぶために3年の期間を与えられ、日本の当局は次のように主張してこれらのアイヌ人を北海道に移送するため、すぐさま動き出した、「彼らは従属的な土着民であるが、時が経つにつれて彼らと本土の人々(内地人)との間には知識の上では違いが無くなるであろう・・・そして彼らを日本国に従属させることは必要なことである」と。(「」が長いので書き下し的に訳しました) アイヌ人は特に、宗谷から宗谷海峡(ラ・ペルーズ海峡)を隔ててほんの数マイル先に懐かしき故郷を見ることができたので、彼らはロシアの支配を渋々避けようとはしなかった。しかしながら、黒田は彼らをそこに定住させるという約束に背いて、彼らを対雁(ついしかり)へ強制移住させた。宗谷でアイヌ人の監督者であった松本十郎は、その(黒田の)裏切りに憤慨し、抗議して辞表を提出し、そして黒田が開発を計画していた石狩炭鉱にアイヌ人を労働力として提供できるという提案にさらなる怒りをもった。この考えが黒田から始まったかどうかは定かではない。しかしいずれにしても、それは実行に移されることはなく、かわりに囚人がそこ(石狩炭鉱)で使われた。当局は対雁(ついしかり)で学校をつくり、農業や漁業組合(前者はアイヌ人の反対に対して)を通して自給自足を促した。「日本語を話すことが出来ない無知で頑固?な女性や子供たち」は家内工業で訓練を受けた。湿地の多い土地は貧しく不健康で、はじめの避難者のおよそ半分は1886年と1887年の一連のコレラや天然痘の流行によって死亡した。1904年から1905年に起こった日露戦争の後、生き残った人のほとんどは南サハリン(南樺太)が日本の支配下に戻る前であったにも拘らず故郷へ帰り始めた。
(文章を無理やり書き下し的に訳している部分が大部あります)
jave
最終更新:2008年11月16日 18:51