漁場は請負人によって管理され続けたが、バショ制度は1869年に廃止された。アイヌは強制労働から解放され、貧しい人々に分け与えられた、関連した「福祉」(ブイク)条例もまた、次第に廃止されていった。新政府の役人たちは、今や倭人と同様の条件下での仕事が助長されたアイヌに対してさく時間も資源もなかった、バショが解体されたので、沿岸のアイヌの中には倭人とともに漁業と海藻収集する場所を与えられたものもいた。この経済的立場の平等化の反映が市民権という観点における公的な平等をもたらした。1871年、開拓使はアイヌが新しい日本国における「平民」、つまり一般人になったと宣言した。大部分のアイヌは1875年から1876年の間に家族の記録(戸籍)に加えられた。一部は日本名で、それ以外の人々はカタカナで書き表されたアイヌ名で。人口の多かった日高地方では、役所は一つの共同体に一つの姓を与えることで時間と労力を節約した。アイヌはまた、アイヌ部族法がアイヌ同士の紛争を解決する基礎である、と認識する習慣を終わりにして、すでに倭人と同じ法に従っていた。「幼稚で無知」なアイヌを開拓使の法制度に組み入れたことは、ある主要な役人、松本十郎を不安にさせた。彼は不安を表し、1874年、手紙で黒田に寛大さを主張した。平民として登録されていることで平等さがほのめかされているにもかかわらず、アイヌは分けた住民登録表(人別帳)を維持することもまた、当初からの開拓使の政策であった。他の文書では、アイヌは最初、旧蝦夷人(初期の蝦夷人)、古民(古代人)、あるいは土人(先住民)と同様の名称で分類されていたが、これらは後1878年に旧土人―初期の先住民―に対する開拓使の規律によって規格化された。アイヌは全て、地域や共同体への忠誠心にかかわらず、一人の同種の人間としてみなされ、行政の目的のため一つの公的範疇の中に組み込まれた。
最終更新:2008年11月16日 23:13