091223
天皇誕生日にまちいろカフェでコーヒーを飲みながらこれを書いている。今日はいい天気。ジャンパーを羽織って出てきたけど途中でそれを脱ぎゆっくりと街をあるいている。クリスマスがちかいからプレゼントを探しながら。
歩きながら川を見ながら感じた。京都の街で感じていたことは、川を身近に感じながら生活をしていたこと。国交省とか市とか関係はあるだろうけどこの街は自然と人をつなぐ知識と意識を持っていない。自然は鑑賞するか入り込んでいくところとして人々の意識にそこに寄り添う感覚がたりない。
うまくそれを造る街のシステムがないのと意識に上がることのない状況が島をますます好き勝手する人々のものにしていってしまっている。
意識をもったものもいるのだろうがいろんなところに浅い考えしか見えないのがここ9ヶ月暮らしてきた感想だ。仕事を通しても生活を通してもとても素直な人たちなのだが考えがいまひとつというところでつながらない。
なにかつなげる仕掛けとシステムが必要だ。
みどり公園で今里郷友会の八月踊りをみる。人は少なくほとんどが年寄りで、ちぢんを打ち鳴らし歌を唄い輪になって踊っていた。この市内でこの時期こういう踊りが20年ほど前はあちらこちらの公園で見る事ができた。
今のこの時期こういう光景を何度か目にした。踊りを踊るのは年寄りばかりでそこに若いものの姿は見られない。今島の中で島歌を若者が歌い、FM放送で無理な島口が使われているのを耳にするが、その理由がここに見えたような気がしている。うわべだけで必要なところには誰も行かないしエネルギーを注がない。実際僕もあの輪の中に入り踊るという気がおきないのだ。自分の中でそれが自分自身につながらない。同じ小さいながらも様々な集落の歴史や価値観を持つ人たちが住むこの街。小さいながらもあらゆる中身は大都会と同じように、つながりで人々は生きている。自分自身の出身地ごとに開かれるこの八月踊り。僕の島の踊りも数年前に人が集まらなくなり消滅した。人はどんどん歳をとり、人はどんどん減っていく。この小さな集まりによるとても島らしい、人のつながりを目の前に表現している八月踊り。この集まりがつながっていかない現実。そこにこの島が行き詰まっている問題が見えるような気がしている。そしてこれを書いている場所は島とは思えないカフェだったりする
昔いたもの:まるいかに、さい(小さな透明なえび)
地球遺産という考え
これまでの記憶の中の景色を書いていこう。
こどものころのなつのあついひに
とうちゃんとふたりでたんぼにいったちば
たうえをするためのじゅんびでわんもつれていかれたちば
かあちゃんがつくったべんとうをたべるために
Uじこうのようすいろにあしつっこんですわったちば
そしたらはぶがおよいできて
わんととうちゃんのあしのあいだを
ぬけてとおりすぎていったちば
わんなんかはもうびっくりして
じっとしてるしかなかったちば
あついひだったから
あっちゅうまだったちば
はぶはながれてどこかにいったんば
わんはびっくりしてうごけんかったちば
まるいかにがおったちば
わんのしまのはまにまえはかにがおったちば
はまがまっくろにみえるぐらいに
はまをあるけばかにがにげてしろいみちが
でてくるみたいに
たくさんのかにがおったちば
まえにあるくかにがおったちば
だんばいつかわからんば
いなくなってや
おぼえてないんば
なんでかわからんば
いなくなったちば
だんばおったちば
ちいさかったから
うそかもしれんけど
おったちば
ほんとにおったちば
天皇誕生日にまちいろカフェでコーヒーを飲みながらこれを書いている。今日はいい天気。ジャンパーを羽織って出てきたけど途中でそれを脱ぎゆっくりと街をあるいている。クリスマスがちかいからプレゼントを探しながら。
歩きながら川を見ながら感じた。京都の街で感じていたことは、川を身近に感じながら生活をしていたこと。国交省とか市とか関係はあるだろうけどこの街は自然と人をつなぐ知識と意識を持っていない。自然は鑑賞するか入り込んでいくところとして人々の意識にそこに寄り添う感覚がたりない。
うまくそれを造る街のシステムがないのと意識に上がることのない状況が島をますます好き勝手する人々のものにしていってしまっている。
意識をもったものもいるのだろうがいろんなところに浅い考えしか見えないのがここ9ヶ月暮らしてきた感想だ。仕事を通しても生活を通してもとても素直な人たちなのだが考えがいまひとつというところでつながらない。
なにかつなげる仕掛けとシステムが必要だ。
みどり公園で今里郷友会の八月踊りをみる。人は少なくほとんどが年寄りで、ちぢんを打ち鳴らし歌を唄い輪になって踊っていた。この市内でこの時期こういう踊りが20年ほど前はあちらこちらの公園で見る事ができた。
今のこの時期こういう光景を何度か目にした。踊りを踊るのは年寄りばかりでそこに若いものの姿は見られない。今島の中で島歌を若者が歌い、FM放送で無理な島口が使われているのを耳にするが、その理由がここに見えたような気がしている。うわべだけで必要なところには誰も行かないしエネルギーを注がない。実際僕もあの輪の中に入り踊るという気がおきないのだ。自分の中でそれが自分自身につながらない。同じ小さいながらも様々な集落の歴史や価値観を持つ人たちが住むこの街。小さいながらもあらゆる中身は大都会と同じように、つながりで人々は生きている。自分自身の出身地ごとに開かれるこの八月踊り。僕の島の踊りも数年前に人が集まらなくなり消滅した。人はどんどん歳をとり、人はどんどん減っていく。この小さな集まりによるとても島らしい、人のつながりを目の前に表現している八月踊り。この集まりがつながっていかない現実。そこにこの島が行き詰まっている問題が見えるような気がしている。そしてこれを書いている場所は島とは思えないカフェだったりする
昔いたもの:まるいかに、さい(小さな透明なえび)
地球遺産という考え
これまでの記憶の中の景色を書いていこう。
こどものころのなつのあついひに
とうちゃんとふたりでたんぼにいったちば
たうえをするためのじゅんびでわんもつれていかれたちば
かあちゃんがつくったべんとうをたべるために
Uじこうのようすいろにあしつっこんですわったちば
そしたらはぶがおよいできて
わんととうちゃんのあしのあいだを
ぬけてとおりすぎていったちば
わんなんかはもうびっくりして
じっとしてるしかなかったちば
あついひだったから
あっちゅうまだったちば
はぶはながれてどこかにいったんば
わんはびっくりしてうごけんかったちば
まるいかにがおったちば
わんのしまのはまにまえはかにがおったちば
はまがまっくろにみえるぐらいに
はまをあるけばかにがにげてしろいみちが
でてくるみたいに
たくさんのかにがおったちば
まえにあるくかにがおったちば
だんばいつかわからんば
いなくなってや
おぼえてないんば
なんでかわからんば
いなくなったちば
だんばおったちば
ちいさかったから
うそかもしれんけど
おったちば
ほんとにおったちば