canestro.

酷肖

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tfei

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執筆日 2008年8月17日
備考 中学3年生のこなたが雨の日に出会ったものとは。
    in a rainy dayのベース。



 不覚だった。
 傘を忘れたわけじゃない。今日の予報では雨は降らないはずだったけれど、それでも私は常日頃から折り畳み傘を持つようにしていたからだ。だから問題は傘のあるなしではなく、長らく使っていなかったその傘が、知らず知らずのうちに使い物にならなくなっていたことなのだ。
 結果的には同じことで、はっきり言えば、今の私には傘がない。
 身体が濡れるのは構わない。制服だって乾かせばいい。ひょっとしたら明日までに乾かないかもしれないけれど、その時は久々にカッターシャツを着ていこう。
 荷物はあきらめた。どうせあと半年しか使わないテキストばかりだ。一応乾かしはするけれど、まったく元通りにはならないだろう。それでもいい。

 ならば問題などないと言って差し支えない、はずだった。

 猫を拾った。
 黒猫だった。まだ小さく、雰囲気が普通の親猫とは明らかに違う。仔猫だ。
 黒猫が前を横切ると不幸になるなんて迷信を、私は信じてなどいなかった。私が現実主義者[リアリスト]だからというだけではない。イギリスでは黒猫が前を横切ると幸福が訪れる、という話を知っていたからだけでもない。単純に、猫に対してあまりに礼節を欠いていると思ったからだ。何なら猫の立場に立って考えてみればいい。
 私は生まれてこのかた猫と戯れたことがなかった。犬なら3つか4つの頃に遊んだことがある。、そして偶然ではあれ、私はこのとき猫というものに初めて触れた。
 たとえ黒猫であっても、物の本で読んだような奇妙なイメージ――いわゆる先入観よりも先に、可愛らしい、という感情を抱くことができたのは、黒猫が怖いというのが、極めて脆弱[ぜいじゃく]なステレオタイプなのかもしれないと思ったからだろう。

 相変わらず雨は降り続いていた。私がこの猫を拾った時だって、雨は降っていたけれど。
 段ボール箱に入れられていたわけではなかった。でも首輪は着けている。本来なら人間に懐かないはずのこの猫が、見ず知らずの私の胸元に飛び込んできた時、私はこの猫を見捨てるタイミングを完全に失ってしまったのである。
 ただの住宅街の片隅だというのに、何故この猫は行き場ひとつ見出せないのだろう。単に猫が愚かなのか、おごりたかぶった人間の悲しき業[ごう]か……いずれにせよ、私は仔猫を見捨てることができなかった。決して豊かとはいえない私の良心でさえも、それを許さなかった。
 ここで仔猫を逃がしたところで、よもやこの仔猫が息絶えてしまうことはあるまい。ただの夕立にすぎないのだから。きっと今までだってそうしてきたはずで、そうでなければ仔猫とはいえこの猫は独りで生き延びてなどいないだろう。

 私は、携帯電話を持っていなかった。持つ癖があるかないかではなく、単純に携帯電話を持っていないのだ。行動範囲が半径3キロメートルに収まる生活で、なぜ携帯電話が必要になるだろうか?だから私は同級生たちが携帯電話を持つことが未だに解せなかった。

 或いはコンビニの、今や数少ない公衆電話から連絡すれば良かったかもしれない。でも誰に?
 お父さんなら間違いなく迎えに来てくれる。でも猫まで連れて帰れる保証はない。それは厭[いや]だ。

 仕方がない。近くのコンビニで傘を買おう。私自身ではなく、この猫のために。

コンビニの中だけは異空間だった。雨風[あめかぜ]を避けられたし、天候に関係なくアルバイトは働いていた。歯の浮くようなBGMは、昼夜を問わず店内に流れ続けている。コンビニだけはどうやら夕立という言葉を知らなかったらしい。ひょっとすると、私が今日その言葉を教えてしまったのではないだろうか。

 いい時代になったかどうかは分からないけれど、今に限って言えば、500円で傘が買える日本に生まれたことを感謝しなければならない。私は今や濡れねずみだったが、それでも傘を差した。どれほど滑稽かなんて考えたくもない。

 右腕には鞄、手には傘。左腕には黒猫を抱いた、小学生のような中学生。それが私だったし、それ以外はない。雨の日の奇妙なオブジェであって、それだけだった。

 結局私は、また今までと同じように独り宛てもなく彷徨[さまよ]い歩く他はなかった。行き場がないのは猫だけではないのだ。それは私自身にも当てはまることで、私はこんな状況になって初めて自らの孤独を――知らなければ幸せでいられたことを、知った。

 私は手近な公園に逃げ込んだ。一軒家が3軒か4軒は建とうかという大きな公園だったけれど、この豪雨の中で遊んでいる酔狂な子供などいない。
 4つあるベンチの上には屋根があった。しばらくは息を抜いて休めるだろう。でもいずれ、私はこの雨に打たれながら帰ることになるはずだ。雨はやみそうにない。それは東の真っ黒い、薄気味悪い空を見れば明らかだった。

「あんたはさぁ」私は何の気なしに問いかけた。「どこから来たの?」
 仔猫は、にゃあ、と一言答えた。一体どこから来たと言ったのだろう。
「どこに帰ればいいのかな、私は」
 そんな答え、猫が知っているはずもない。仔猫はぷいとそっぽを向いてしまった。
 私は仔猫から手を離した。しかし猫はこの雨の中へ走り出してゆくこともなく、ベンチの上に寝転がる私の上に仮初めの居場所を見つけ、くるりと丸くなっていた。
 温かくもない。お互い様だ。仔猫は毛皮にたっぷりと雨水を含んでいたから、出来れば私にまとわりつかないで欲しかったのだけれど、きっと頼んだって聞いてくれはしない。
 孤独な者どうしが集まったって、それはあくまでも孤独。私は、また知らなくても良かったことを知ってしまった。

 雨は止まない。もういい、帰ろう。どちらにせよ、ずぶ濡れになって帰ることには変わりないのだ。猫なんて知らない。
 そう思った瞬間、仔猫は私のお腹の上から飛び降りた。仔猫は私を一瞥してから、私がまばたきする間に、草むらの中に姿を消した。

 あの猫は一体何だったのだろう?私の知るところではないけれど、何か引っかかるものがあった。あれは本当に猫だったのか?或いは、猫の形をした、全然別の何かだったのかもしれない。


 知ったことじゃない。それこそ私の知るところではない。



 結局、私はずぶ濡れにもかかわらず、傘を片手に自宅に帰り着くことになった。シャワーはもちろん浴びたけれど、降り続く雨の余韻を私の身体から流し去ってしまうことは、とうとうできなかった。




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