関係あるとみられるもの
綿月豊姫(東方儚月抄)
住所
天石門別豊玉龍王宮跡 徳島県徳島市徳島町城内 JR各線「徳島駅」より徒歩10分
国瑞彦神社 徳島県徳島市伊賀町1-6 JR各線「徳島駅」より徒歩20分
春日神社 徳島県徳島市眉山町大滝山1 JR各線「徳島駅」より徒歩10分
天石門別豊玉龍王宮跡(あまのいわとわけとよたまりゅうおうぐうあと)
天石門別豊玉龍王宮(以下「竜王宮」という)は徳島県徳島市にある
城山(しろやま。標高約61.7m)のどこかに、かつて存在したとされる神社である。竜王宮の社殿は時代のうつろいとともに消失したが、紆余曲折を経て春日神社(徳島市眉山町)に
「豊玉比賣(トヨタマビメ)神社」の名で再建されている(詳細は後述)。城山に「竜王宮」が建てられたのは室町時代末期から江戸時代中期ごろのことだと考えられているが、その起源は西暦927年の『延喜式』に記された
「天石門別豊玉比賣神社(あまのいわとわけとよたまじんじゃ)」ではないかとも言われており、同じように『延喜式』に記され、かつ徳島市内にあったとされる「
和多都美豊玉比売神社(わだつみとよたまひめじんじゃ)」と並び
豊玉姫神(トヨタマヒメ)を祀る日本最古の神社である可能性を持つ。なお神代から城山に「天石門別豊玉比賣神社」が存在したのではなく、本来は徳島市の西部にある東竜王山(標高約407.8m)又は西竜王山(標高約495.1m)もしくはその両方にそれぞれ存在した「天石門別豊玉比賣神社」が元禄年代(西暦1688年から1704年頃)になって移設されたものが竜王宮であると読み取れる文献もある(『名神序頌』。1895年 岡本監輔)が、本頁では最も浸透していると思われる説にならい城山一帯の歴史とともに「天石門別豊玉龍王宮」の盛衰と現在を記載するものとする。
吉野川河口の三角州地帯にあり紀伊水道から極めてほど近い場所に広がる徳島平野は、したたかな治水の戦いを繰り返しながらも肥沃な土壌と海に恵まれた豊かな土地である。この徳島平野のおよそ中央部に標高約290メートル、東西約6.5km、南北約3kmの「眉山(びざん)」がそびえ、故郷の象徴として時代を越えて人々の心と暮らしを支えてきた。ちなみに眉山と呼ばれるようになった由来は、山体が非常に細長くどの角度から見ても眉毛(まゆげ)のように見えるからであると言われる。「眉山」と呼ばれる山は
岐阜県、佐賀県、
長崎県などにも存在する。ただし佐賀県、
長野県の眉山は「まゆやま」と訓読みする。徳島の眉山には西暦700年代に第45代天皇の聖武天皇が行幸したという記録も残されており、同伴した船王(ふなのおおきみ)が「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山」という歌を詠んだとされている(『万葉集巻6 998』)。
この眉山の稜線を北東の方向に延ばした先に、かつて竜王宮のあったとされる「城山」が存在する。眉山と城山はJR徳島駅や市庁舎など街の中枢を挟み対峙するような様相になっている。今から約4500年~2500年前、すなわち紀元前1500年~紀元前500年ごろは眉山の東に海岸線があり、城山は内陸の山ではなく海辺に浮かぶ小さな島々の一つだったようである。城山の壁にあいた洞窟や岩陰からは当時の生活遺跡が複数発見されており(城山貝塚)、人々に雨露をしのぐ住居を提供していたものと考えられている。"2号貝塚"と呼ばれる遺跡からはハマグリ・カキなどを主体とした厚さ60~100cmにも及ぶ貝層や土器片、ほぼ完全な全形を保った屈葬人骨など、往古の生活がしのばれる貴重な発見がされている。この城山貝塚を含め、
徳島県の主に沿岸部には多くの生活痕や陵墓などが発見されており、豊かな阿波国(現徳島県の古名)には相当数の人々が暮らしていたのではないかと推測されている。未だ謎の多い我が国の古代史については、『魏志倭人伝』の邪馬台国は九州でも機内でもなく阿波国にあったのだとか、豊玉姫は過去に阿波一帯を支配していた大王の娘がモデルなのだとか、山幸彦は海に潜ったのではなく瀬戸内海を渡って四国にやって来たのだとか、よって竜宮とは阿波国のことなのだとか、ロマンあふれる仮説も後を絶たない。
※城山貝塚
平安時代になると貴族や寺社が日本各地に荘園(私有田)を持つようになる。阿波国にも
高野山や春日神社、東大寺、仁和寺、石清水八幡宮といった名だたる有力寺社の荘園などが60余り存在し、生糸などの生産が行われた。西暦800年ごろには綿の生産も行われるようになり、さらに阿波国司の山田古嗣(やまだのふるつぐ)の治水事業によって水田も整備された。古来阿波国は河川の氾濫が多く、稲作に適さなかった。そのため、穀物では主に粟(あわ)の生産が行われていた。これが「阿波(あわ)国」の名前由来でもあったが、山田古嗣の治水事業は米の生産力をもたらし、土地柄を大きく変えることになった。平安末期になると阿波国府を足がかりに田口成良(粟田成良)が台頭し平清盛ら平氏勢力にくみして讃岐・阿波の両国に勢力を拡大した。鎌倉幕府成立後は佐々木氏や小笠原氏らが阿波国外から入国し、同地を支配した。
室町時代に入ると足利氏の一族である細川氏が阿波国の守護となった。「城山」の山頂からは康暦2年2月(西暦1380年)と記された板碑が後年出土しており、これが現在「城山」にまつわる最古の記録ではないかと考えられている。阿波国の守護を務めた細川氏の一人、細川頼之(西暦1329年~1392年)は「城山」を「渭山(いやま、いのやま)」と呼び、1385年に「渭の津の城(渭山城)」を築城する。渭山の由来は同地が中国の「渭水」に似ていたからではないかと推測されているが、山の西面が猪の姿に似ていることから「猪山」と呼ばれたのが誤って伝わったのではないかとも言われる。城山頂上の東北隅辺と護国神社参道の石段最上段南にある石畳が、かつての渭山城の遺構ではないかとされる。しかし渭山城が造られた約80年後に応仁・文明の乱(西暦1467~1477年)が発生すると、阿波国での細川氏の支配力は弱まり、城主もしばしば入れ替わるようになる。細川氏一門の中でも有力な家臣であった三好氏が台頭し、三好長慶(みよしながよし)の時代には阿波国内に留まらず畿内にも進出して足利幕府の実権を握るほどの権勢を誇るようになる。しかし天正10(1582)年には三好氏は土佐国を基盤とする長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に敗退し阿波国の覇権を失う。そして長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)もまた天下統一政策を進める豊臣秀吉らの四国攻めの前に屈することとなる。
四国を平定した豊臣秀吉は長年の実績と四国攻めの労に報いて武将の蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)に阿波一国を与えた。しかし正勝は老齢を理由に(あるいは豊臣秀吉の元で忠義を尽くし疑心をかわすため)これを辞退し、代わって正勝の子の蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が阿波国に入封することとなった。家政は最初、東竜王山のふもとにあった一宮城を改築して移り棲んだが、やがて手狭に感じるようになった。そこで1585年(天正13)、家政は新たな居城作りに着手し、その候補地を交通と国防に優れた渭津(城山)に定める。この計画に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や小早川隆景(こばやかわたかかげ)などが協力し、翌年には新たな居城が完成した。それまで城山山頂にあった渭山城から山麓にあった寺島城までを取りこむような大規模な敷地を持つ平山城だった。家政は新たに完成した自らの居城を「徳島城」と命名した。当時の城山近辺は吉野川下流にはさまれた三角州の丘陵であったため、家政はこれを「島」に見立て、かつ縁起の良い「徳」の字を足したものである。以後、城山の周辺は城下町として大いに栄えた。
そしてこの徳島城に関する伝説に、「清玄坊の祟り」と呼ばれるものがある。前段のとおり城山一帯に新城の設営を計画した蜂須賀家政は、阿波国内にあった様々な寺社に城内あるいは城山近辺への移動と配置換えを命じた。その理由は2通りに別れ、阿波国内で格式の高い寺社については城の東西南北に引っ越しさせて霊的な守護の要とするという理由(諏訪神社、春日神社など)で、築城に不都合な場所に立っている寺社についてはこれを排除するという理由で移動を命じるものだった。一方この頃、城山には「清玄坊」と名乗る修験者が城山北側ふもとの池(現在の弁天池)のほとりに祈祷所を立てて暮らしていた。「清玄坊」は清和源氏の血をひく高貴な出自であるとも言われ、蜂須賀氏より二十余年以上も前(三好氏が権勢をふるっていた時代)に阿波国に渡来し、城山の祈祷所で"何か"を祀りながら暮らしていた。家政は清玄坊に対し、得体の知れない祈祷をやめ土地を明け渡すよう命令した。ところが、清玄坊はこれに全く応じず、かたくなに抵抗をつづけた。困りあぐねた家政は一計を案じ、ある日「代替地を与える。どこが良いか一緒に検討しよう。」と言って清玄坊を城山の外へ誘い出すと、頃合いを見て弓で射殺してしまった。こうしてクレーマーを排除したことにより、家政の築城計画は再びスムーズに動きだすはずだった。ところが、清玄坊の暗殺を行った直後から家政の家中でありえないような不幸や妖異が続出するようになった。例えば家政が急に原因不明の病に冒されたり、夜な夜な清玄坊の舞首が飛ぶ姿が目撃されるようになった。この異常事態を「清玄坊の祟りではないか」と怖れた家政は、自らの行った非道に対し悔悟の石碑を立てた。さらには清玄坊を末代まで供養し、城を築いても清玄坊の祈祷所だけは動かさず、藩主自らが清玄坊の行っていた祭祀を引き継ぐといった破格の条件を誓った。すると、変事はピタリと止んだという。その後、蜂須賀氏の藩主は代々清玄坊の祀っていた「何か」の祭祀を継承しその社は「龍王宮(竜王宮)」の名で江戸時代の文献にも載る様になった。
一体なぜ清玄坊がこれほどまで頑なに退去を拒み、何を信仰していたのかについては確かな記録は見つかっていない。しかしその仮説の一つとして、清玄坊が死してなお守ろうとしたものこそ「天石門別豊玉比賣神社」であり、豊玉姫への信仰ではなかったのかという説がある。文化年間に編纂された『諸国風俗問状答 市中歳節記』によれば、清玄坊は江戸時代に"神霊"として祀られるようになり、清玄坊が射殺されたといわれる「紙町」ではその名も「清玄坊祭り」という祭りが催されていたという。祭りの際には清玄坊の姿を模した張り子が登場し街を練り歩くが、その姿は「頭は坊主、首元より蛇体で両手がある」「背に鱗があり彩色、蛇腹は赤」と記されているとおり、あたかも人面の龍のような様相をとっていた。その理由としては、本来「清玄坊祭り」には「清玄坊の供養」と「清玄坊の祀っていた神さまの祭り」という二つの趣旨があったものがいつの間にかゴチャゴチャになり、「頭は清玄坊、体は清玄坊が祀っていた神さま」という体に落ち着いてしまったのではないかとも考えらえれる。古来、わが国で海に住まう龍神と言えば豊玉姫のことをさす事が少なくないが、これは豊玉姫が記紀神話の中で龍(あるいは鮫)の姿をとって登場するためである。後に生まれたお伽話上でも竜宮の王すなわち乙姫と豊玉姫とはしばしば同一視される。すなわち、この神霊「清玄坊」の異様な姿は、清玄坊と清玄坊の龍神(豊玉姫)とがはからずとも合祀されたものではないかと推測できる。この「清玄坊祭り」は明治まで続いたが、大正時代は祭日に頭部が当番の家に飾られるだけにまで衰退した。さらにはこの頭部も戦災で焼けてしまい、昭和39年頃にようやく復活したらしい。
以上の話はいわずもがな極めてオカルトチックな話であり現段階では信憑性議論の土台にすら乗りようもない気がする。しかし、先述のとおり少なくとも江戸中期ごろには徳島城内に「竜王宮」とよばれる神社(祠)が存在していたことは文献などで確認することができ、蜂須賀家の当主が参詣したという記録も残されている。清玄坊の長男「範月」は家政と和睦をし、父の菩提を弔う為に瑞巌寺に地蔵を安置したと伝えられるほか、次男・三男らの家系は現代まで続いていると言われる。
西暦1868年に明治維新が起こり、明治6年(西暦1873年)に「廃城令」が発令されると徳島城は存城処分となる。存城処分とは城を残すと言う意味であるが「文化財として城建物を保護しよう」とかそういう殊勝な意味ではなく、主に軍事目的で地形や構築物の一部を拠点として再活用しようという意味である。これにより1875年(明治8年)徳島城は城門を除く御三階櫓以下、場内の全ての建築物が撤去されてしまう。竜王宮もまた例外ではなく取り壊されることとなり、わずかな石垣と境内にあたる場所にあったと考えられる樹齢600年程度のクスノキの大木だけを遺してこの世から姿を消すこととなった。竜王宮の取り壊しにあたって、蜂須賀氏は竜王宮の神を眉山東麓にある「国瑞彦神社(くにたまひこじんじゃ)」へと合祀した。国瑞彦神社は文化3年(西暦1806年)に徳島藩第11代藩主の蜂須賀治昭が建立した神社で、藩祖である蜂須賀家政をしのび「国瑞彦」の神号を贈って神として祀る。徳島城築城にかかる伝説が真実を含んでいるとするならば、図ってか図らずか清玄坊を殺害しその償いとして竜王の神を祀ると誓った家政の神霊と祀られる竜王宮の神とが合祀されたことになる。まあ歴代藩主が信奉してきた竜王の神を無下にできず、図ったんじゃないかと思う。多分。
※国瑞彦神社。八幡神社などが隣接する。
こうして祭祀だけは継承されたかに見えた竜王宮だったが、明治4年(西暦1872年)に第14代藩主の蜂須賀茂韶が東京に転居し、さらにその子孫らも大規模農場の経営を目指して
北海道に移住するなど次第に徳島の地とは疎遠になっていく。明治17年(西暦1884年)には華族(侯爵家)に列せられ、一時は水戸徳川氏らと並んで国内有数の"富豪家族"とまで称された蜂須賀一族であったが、北海道での農業経営は芳しくなく、次第に財産を失っていったらしい。さらに大正から昭和期に18代当主となった蜂須賀正氏は、有能な鳥類学者あるいは冒険心溢れる人物として名声を高めるが、同時に派手な女性問題や(戦時全体主義思想から見て)反社会的な行動をしばしばとったために世間の批判も浴び、終戦直後の西暦1945年(昭和20年)7月には侯爵位を返上する。西暦1953年に正氏が没すると遺族間に財産争いが起こり、そこに暴力団もからんだため過半の財産を消失されるなど散々なことになる。祭主を務めた蜂須賀氏と竜王宮との縁もこうした時代の流れの中で次第に薄れていった。
※歴史にとりのこされた「竜王さんのクスノキ」。変な形をしているのは西暦1934年の台風で倒木したため。
以上のように一旦は社殿喪失の憂き目に遭い、祭主蜂須賀氏とも疎遠になっていた竜王宮はそのまま幻想入り・・・しても不思議ではなかったが、なんと21世紀になってから突如復活する。この異例の復活は、2000年代頃に着任した春日神社(徳島市眉山町)の新宮司さんの意向による所が大きい。そもそも春日神社は、かつて春日大社の領であった入田村(現徳島市入田町)の春日祠を起源に持つとされ、徳島城築城の際に鎮護の目的で眉山ふもとに遷座されたと伝えられる神社である。歴代藩主を務めた蜂須賀氏から篤く崇敬を集め、明治維新後も国瑞彦神社同様に今日まで絶えることなく存続している。この春日神社の宮司さんが「春日神社はもともと徳島城の鎮護を司るものであるから、同じく徳島城内にあった竜王宮もあずかりたい」と申し入れたことにより、竜王宮の神霊は国瑞彦神社から現在春日神社の境内へと再遷座されることになる。こうして春日神社に移った竜王宮の神には社殿があつらえられ、「豊玉比賣(トヨタマビメ)神社」と名を改めて復活した。ちなみに竜王宮の神の遷座にあたっては春日神社境内ではなく、本来竜王宮のあった徳島城址の敷地内に還す事が望ましいとも考えられたが、物理的な困難も伴うのでそれならば宮司もいる春日神社で預かろうといった趣旨もあったらしい。こうして江戸時代に存在した竜王宮の系譜は前史にあっては式内社の「天石門別豊玉龍王宮」と結び付けられ、後史にあっては春日神社内の「豊玉比賣神社」として現代まで命脈を保っていることになる。
※復活した「豊玉比賣神社」。背後に見えるのが春日神社の社殿。
皇祖 豊玉姫
高天原から地上に降臨したニニギが
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と出会い、結ばれた後の話。
色々とファンキーな性格の木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)は色々とファンキーな逸話を残しつつ、ニニギとの間に3柱の子をもうけた。長男の名をホデリノ命、次男の名をホスセリノ命、三男の名をホヲリノ命またの名をアマツヒコヒコホホデミノ命といった。ちなみにニニギと結ばれた神は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と神阿多都比売(カムアタツヒメ)という二つの名をもっており、これは本来全くの別神だったコノハナサクヤヒメとカムアタツヒメが、神話が体系化する中で同一視されるようになったからとも言われる。
二人の間に生まれた三柱の子どものうち、長男のホデリノ命は海辺に住み、海幸彦(うみさちひこ)と呼ばれるようになった。ひれの大きな魚やひれの小さな魚を捕って暮らしていた。三男のホオリノ命は山に住み、山幸彦(やまさちひこ)と呼ばれるようになった。毛の堅い獣や毛の柔らかい獣を捕って暮していた。次男のホスセリノ命がどうなったかはしらん。
ある時、三男の山幸彦が長男の海幸彦に「私の猟具と兄者の漁具を交換しましょう(猟師と漁師の職業をとりかえましょう)。」と言って三度も願い出た。海幸彦はかたくなに拒んだが、あまりにもしつこいのでとうとう承諾した。山幸彦は喜び勇んで海に出て、借りた釣り具で漁を始めた。しかし、ついに魚の一匹も捕まらなかった。それどころか、海幸彦から借りた釣針を海深くに失くしてしまった。対して山に入った海幸彦も、からっきし獲物が捕まらなかった。海幸彦は山幸彦の元を訪れると「やはり馴染みの道具を使わなければ獲物は捕まるまい。お互い道具を返し合おう。」と言った。これに対し山幸彦は「私も魚は一匹も捕まりませんでした。あと釣り針なくしました。」と答えた。海幸彦はキレた。海に潜ってでもなんでも釣針を返せとまくしたてた。山幸彦は身に帯びていた神剣「十拳剣(とつかのつるぎ)」を砕き500もの釣針を作って許しを乞うたが、海幸彦は受け取らず「やはり元の釣針を返してくれ」と言った。
自業自得とはいえ輝夜姫ばりの難題を押し付けられた山幸彦が途方に暮れて海辺で泣いていると、シホツチノ神がやってきて「ソラツヒコ様(山幸彦の尊称)がなんで泣いとんねん?」と尋ねた。シホツチノ神は潮流や潮騒といった海の作用が神格化されたものと考えられる。山幸彦が事情を説明すると、面倒見の良いシホツチノ神は早速竹をスキマ無く編み上げて船を造り、山幸彦に言った。
「私がこの船を押し流しますから、どうぞお乗りください。潮路に乗って進めば、魚の鱗のように棟を立ち並べた宮殿があります。それこそが、綿津見神(ワタツミノ神)の宮殿です。宮殿の御門においでになられたら門の傍にある泉のほとりに神聖な桂の木が立っているはずです。この木に登って待っていれば、宮殿の中からあなたが見えるので、ワタツミノ神の姫があなたの姿を見て取り計らいをしてくれるでしょう。」
文字どおり、渡りに船を得た山幸彦が海に出て潮路を進むと、シホツチノ神の言葉のとおり宮殿の門の前にたどり着いた。門の傍らに泉があり、桂の木が立っているのも見えた。そこで山幸彦は桂の木に登り、ものすごく光ったりして宮殿内部の人々に存在アピールをはじめた。ちょうどその時、ワタツミノ神の娘である豊玉姫に仕える侍女が、豊玉姫にさし上げる水を汲もうと器をもって泉の方にやってきた。侍女は上方から泉の水面に光が差していることに気がつき、振り仰いで桂の木を見上げると、イケメンっぽいのが木の上で存在アピールしていた。侍女が不思議に思って首をひねっていると、山幸彦も侍女に気がつき「水が欲しい」と所望した。とりあえず侍女が言われたとおりに器に水を汲んで渡すと、山幸彦はその水を飲まずに、首にかけた玉を口に含み、水の中に吐き出した。すると吐き出された玉は器にくっついた。侍女はどうやってもこの玉を取りはずすことができなかったので、仕方なく玉のついたままの器を豊玉姫にさし上げた。
玉のくっついてしまった器を見た豊玉姫は「門の外に誰かいるのですか?」と尋ねた。侍女は答えて「桂の木の上でイケメンが存在アピールしてます。ワタツミ様より身分の高い方かもしれません。この玉はそいつにやられました。」と答えた。興味を持った豊玉姫が門の外に出て桂の木を見あげると、そこにいた山幸彦があまりのイケメンだったため瞬時に恋に落ちた。豊玉姫は宮殿の中へと引き換えし父神のワタツミノ神をつかまえて「我らの宮殿の前にイケメンがいます。」と申し上げた。そこでワタツミノ神自らが宮殿の外に赴き山幸彦を視認すると、「あれはアマツヒコの御子のソラツヒコだよ。」と言い直ちに宮殿の中に案内した。ワタツミノ神は幾重ものアシカの皮畳の上に絹畳を積み重ねた上座を用意し、貢物とごちそうを沢山の台に載せてもてなした。山幸彦と豊玉姫は結婚し、山幸彦は三年余りの月日を海神の国で過ごした。
ところがそのうち、山幸彦はなんで自分が海神の国に来たのかを思い出し深いため息をつくようになった。そこで豊玉姫はワタツミノ神に「最近山幸彦がため息ばかりついています。なにかワケがおありではないでしょうか。」と申し上げた。これを聞いたワタツミノ神が山幸彦に理由を尋ねると、山幸彦は兄海幸彦がブチ切れた情景をふんだんに交えながら事情を説明した。だいたい把握したワタツミノ神は海中の魚を集めると「お前らの中に釣針を飲み込んだ奴いないか?」と尋ねた。すると多くの魚が「そういえば近頃赤い鯛が喉に骨がささって物を食べられないと嘆いています。」と騒ぎ立てた。そこでワタツミノ神は赤い鯛を呼び出し喉をまさぐると、中から海幸彦の釣針が出てきた。ワタツミノ神は釣針を清め山幸彦に渡した。またこの時、ワタツミノ神は「釣針を兄神に返される時、『この釣針は憂鬱になる釣針、イライラする釣針、貧しくなる釣針、愚かになる釣針』と唱え、手を後ろに回し背を向けてお渡しなさい。その後、兄神が高台に田を作ったならあなたは低い土地に、兄神が低い土地に田を作ったならあなたは高台に田を作りなさい。そうすれば私は水を操る程度の能力をもっているので、あなたの田だけ豊作になる様にしましょう。そうして兄神があなたを恨み武力で攻めてきたら、この潮満珠(しおみつたま)を使って水を呼び、おぼれさせるのです。兄神が悔い改めたら今度は潮干珠(しおふるたま)を使って水をひかせ助けてあげなさい。」と言い、二つの珠を授けた。ワタツミノ神が海中のワニを全部呼び集めて「お前ら山幸彦を元の国に送りかえすのに何日かかりますか?」と尋ねるたところ、一尋鰐(ひとひろわに)が「一日もあれば十分です。」と申し出たのが最速だった。こうして山幸彦は一尋鰐の首に捕まって海をわたり、海神の国からアシツハラノナカツクニへと戻った。一尋鰐は約束通りに一日で山幸彦を送りかえしたので、山幸彦は別れ際に身に帯びていた紐小刀を鰐の首にかけてやった。こうしてその一尋鰐は「サヒモチノ神」という神となった。
山幸彦はワタツミノ神の教えのとおりに釣針を海幸彦に返し、田を作る際に海幸彦と真逆のことをした。こうして海幸彦は次第に貧しくなり、最後にはすさんで山幸彦の元に攻め寄せた。山幸彦は潮満珠を使って海幸彦をおぼれさせ、とうとう海幸彦が許しを乞うた時には潮干珠を使って助け上げた。海幸彦は降参し「これからはあなた様の守護人(臣下)となって昼夜を問わずお仕え致します。」と申し上げた。
それからしばらくして、豊玉姫がアシハラノナカツクニにいる山幸彦のもとへやってきた。豊玉姫は「子どもができちゃったみたいです。天つ神の子は海原で産むべきではないと思ったので来ました。」と申し上げた。そこでさっそく山幸彦は海辺の渚に鵜の羽で屋根を葺(ふ)いた産屋(うぶや)を造ることにした。ところが予想より早く豊玉姫の陣痛が始まってしまい、仕方なくまだ未完成の小屋で子を産むことになった。この時豊玉姫は「異郷の者は出産する時になると自分の本国の姿になって産むのです。それで私も本来の姿となってお産をします。お願いですから絶対にのぞかないでください。」と申し上げた。典型的な見るなのタブーである。ところが山幸彦はこの願いの意味が分からず、かえって興味にかられてお産を覗いてしまった。すると小屋の中では八尋もの大きさがある巨大な鰐(わに)が、陣痛に苦しみながらのたうち廻っていた。一尋とは大人が両手を広げて「そーなのか」のポーズ(あるいは「人類は十進法を発明しました」のポーズ)をとった時の横幅一人分のことである。すなわち八尋とは両手を広げたEXルーミアさんを8人、あるいはもっとたくさん無数に並べた("八"には限りなく沢山という意味もある。)大きさと言えばわかりにくいだろうか。大鰐と化した豊玉姫先輩の姿に仰天した山幸彦は、恐ろしさのあまりその場から逃げ出した。これに気がついた豊玉姫は大変に恥じらい、傷ついた。無事子供を産み終わると、豊玉姫は「私は今後子供を育てるため今後海の道を通って自由に海神の国とあなたの国を行き来するつもりでした。しかし、あなたにお産を見られたことがたいそう恥ずかしいです。」と申し立て、海神の国へ帰って行った。この時、山幸彦が二度と海神の国へ渡ることができないよう現世と海神の国の間に隔たりを作った。こうして生まれた子はアマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノ命(渚で鵜の羽の屋根を葺き終わる前に生まれた子という意味)と名づけられた。名前長すぎだろ。
しかし、海の国へ帰った豊玉姫は山幸彦を恨みながらも、なお恋慕の情を抱きつづけていた。夫を慕う心に耐えられなくなった豊玉姫は、自らの子を養育するという名目で妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を山幸彦のもとへと遣わした。地上に降り立った際、玉依姫は姉から歌を託されており、これを山幸彦の前で詠んでみせた。
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装(よそい)し 貴くありけり
(赤い玉は貫いた緒(紐)まで照らすほど美しいですが、それにもまして白い玉のようなあなたの姿はたいそう立派でした。)
これに対し、山幸彦も歌で答えた。
沖つ鳥 鴨著(かもど)く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに
(鴨の寄り鳴く島で ともに寄り添って眠ったことを いつまでも忘れないだろう 生きている限り。)
その後山幸彦は580歳まで生きた。御陵は高千穂の山の西にある。
山幸彦と豊玉姫の間に生まれたアマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノ命は、豊玉姫の妹(つまりアマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノ命から見て叔母)の玉依姫を妻とした。玉依姫はイツセノ命、イナヒノ命、ミケヌノ命、ワカミケヌノ命(トヨミケヌノ命またはカムヤマトイハレビコノ命)の四子を産んだ。このうち、ワカミケヌノ命は後の神武天皇となった。
以上が『古事記』『日本書紀』に描かれた、豊玉姫及び玉依姫にまつわる神話の概要である。この姉妹にまつわる神話は明らかに豊玉姫が主役で、どちらかと言えば妹の方は別に・・・である。ややこしいことに、「玉依姫」という語には「豊玉姫の妹」個人を指す固有名詞としての用途の他に「霊魂(みたま)の依代となる女性」という一般名詞としての語用もあったらしい。各種の神話なり『風土記』の中に神おろしを行ったりする「玉依姫」が登場するが、この場合の「玉依姫」は豊玉姫の妹個人を言っているとは(神格等をかんがみても)考えがたく、「実名不明のとある巫女さん」の意で玉依姫と言っているのではないかと考えられる。東方projectに登場する綿月依姫は玉依姫がモデルだと考えられるが、「豊玉姫の妹」と「神霊の依代となる女性」という玉依姫の二つの語意を接合して設計されたキャラクターであると言える。
また、豊玉姫の子であるアマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノ命と豊玉姫の妹である玉依姫が後に婚姻関係を結び子をもうけたことは直系血族又は三親等内の傍系血族の間では婚姻をすることができない(民法第734条)と定められた現代日本の倫理からするとセンセーショナルではあるが、歴史を振り返れば世界的に珍しい事でも何でもない。甥叔母婚は政略的には外戚との関係を濃くするために有効であるし、姉妹間で年の差が開いている場合は夫婦間の年齢差がそれほどあるとも限らない。生物科学が発展し近親婚のリスクが示されている現代でも甥叔母婚を合法とし、近親婚に含めない国もある(ドイツやタイなど)。話がそれたが、山幸彦ことホヲリノ神はニニギの子にして神武天皇の祖父であり、皇家の系譜に二代にわたってワタツミの血脈が入っていることは"古代史研究"上非常に重要な出来事と言えるかもしれない。
※春日神社境内に立てられた豊玉姫に関する説明書き。大女王の称号が輝かしい。
綿月姉妹 東方projectにおける月と海
以上、本頁で紹介した豊玉姫及び玉依姫は、東方pojectにおいて綿月姉妹のモデルとなっていると考えられる。その根拠は原作中に多く存在するが、最も直接的なのは次の箇所だろう。
月の羽衣を見た所為だろうか、遥か昔、私が月の賢者として月の都にいた頃を思い出していた。
私は月と地上を行き来する使者のリーダーとして働き、今一緒に暮らしている輝夜姫以外にも、二人のお姫様姉妹を小さい頃から教育していた。
二人の姫は私の遠い親族である。人間風に言えば私から見て又甥の嫁、及び又甥夫婦の息子の嫁、という何とも遠い縁だったが、私は教育係として様々な事を教えた。
姉は天性の幸運で富に恵まれ何不自由なく暮らし、妹のお姫様は非常に頭が切れ、私の言う事を何でも吸収していった。
私はいずれこの二人に月の使者を任せることになるであろうと考えていた。
※小説版『東方儚月抄』 P14 八意永琳の独白より
具体名は挙げられていないものの、豊姫とその夫の間に生まれた子が依姫と結婚したと読み取れる描写である。この関係性は山幸彦と豊玉姫の子が玉依姫と婚姻したとされる神話と合致する。八意永琳と縁戚関係にあるという記載も、『日本書紀』中の記載によるオモイカネ(八意永琳のモデルと考えられる神さま)から豊玉姫に連なる系譜と完全に附合できる。「子孫を持つ可能性のあるキャラクター」としては八意永琳や洩矢諏訪子などが、既婚者である可能性のあるキャラクターとしては八坂神奈子や水橋パルスィなどが『東方儚月抄』前にも登場していたが、既婚者であると明記されたキャラクターは綿月姉妹が東方project初であると言える。なお、近年では霍青娥や純狐など既婚者のキャラクターも時々登場する。
豊姫様は海と山とを同一視できる能力を持つ。その能力は月の海と地上の山を結び、同じ場所とする事も出来るのだ。
つまり大部隊を連れて一瞬にして地上に行く事が出来る数少ない月の民である。月の使者として相応しい人物だった。性格はともかく。
※小説版『東方儚月抄』 P134 月兎(俗に言うレイセン2号)の独白より
豊姫の能力は「山を海つなぐ能力(『東方求問口授』あとがき中のZUN氏の発言より)」であるとされ、山と海に見立てられる座標同士ならば瞬時に移動できると考えられる。一方豊玉姫も山幸彦にお産を見られた後に「本来なら子育てをするために海の国と地上の国を自由に行き来しようと考えていたが云々」と語っていることから、隔てられた場所同士を自由に行き来する能力があったものと考えられる。この点も豊玉姫=豊姫の可能性を強めている。
他方、神話やおとぎ話で「海の国」や「竜宮」と語られる豊玉姫の聖地(生地)については、本頁に記載した「天石門別豊玉龍王宮」を"筆頭"に日本各地の史跡が比定候補地に名乗りを挙げているが、東方projectでは残酷かつ大胆に「竜宮は月にあるぞ」と明言されている。しかも何度も何度も念入りに取り上げられており、「月は特別な場所」であるという原作者ZUN氏の"こだわり"はかなり強いことがうかがい知れる。
今、私達は
静かの月の海の前にいる。月では海は地上と最も近い場所である。その為、稀に地上の生物が紛れ込む事があるのだ。
地上ではその現象を神隠しと呼んでいる。だが、神隠しは月の都に来る事だけを指すわけではない。過去、未来、地獄、天界等、様々な世界に迷い込む事を指す。
※小説版『東方儚月抄』 P59 綿月豊姫の独白より
それはもう千五百年以上は昔の話であるが、水江浦嶋子と名乗る人物が水に映った青い星から出てきた事があった。
(中略)
ようやく辿り着いた月の都を海の向こうの国だと勘違いしていた。海の向こうの国-実際は月の都だったのだが、それが蓬莱国だと思い込んでいたのだ。
私はそれは違うと訂正した。"お前が今居る場所は蓬莱国などではなく海底に存在する『竜宮城』である"と嘘を教えた。
(中略)
そうして勘違いしたまま浦嶋子は三年ほど月の都で暮らした。地上の人間でそこまで長く月の都に滞在した者は少ない。
だから私はよく覚えていたのだが、依姫にとってはそんなに重要な記憶ではなかったみたいだ。
※小説版『東方儚月抄』 P60~P61 綿月豊姫の独白より
そういえば衣玖の種族はカタカナではなく漢字で「竜宮の使い」と書きますが、竜宮は存在しているんです。
それは月の都のことなんですが。
※『東方求問口授』 P183 おまけインタビューによるZUN氏の発言
そらもう、完膚なきまでに竜宮は徳島ではなく月にあると言われている。それはそれは残酷な話である。是非とも本物の竜宮を来訪したいと考える冒険家肌の巡礼クラスターの諸兄には、いつか月旅行が可能となる日に備えて貯金と知識をたくわえ、体をバッキバキに鍛えておくことを勧奨せざるをえない。現在のところNASAは月の再上陸より移住可能性を求めて火星の有人探査計画に力点を注いでる感じもするけどな。
ともあれ、本頁の「天石門別豊玉龍王宮」が現段階で豊玉姫ひいては綿月豊姫と最も密接な関連をもつ寺社の一つであることは間違いない。かつて水面(みなも)に映った月に潜って月面へと攻め込んだ妖怪の賢者もいたことであるし、「天石門別豊玉龍王宮」を地上(あるいは外界)の竜宮に見立てて参拝すれば本当は近い月の都への通路もほんのりひらけて見えるかもしれないし見えないかもしれない。「量子的に物事を見た場合、起こりえる事象は必ず起こります。何故なら量子の世界では確率的に事象が決まるのに、その情報を完全に捉える事ができないからです。結果を求められない確率で起こる事象とは、如何なる低い確率であろうと0ではない限り存在する事象なのです。この世は量子から出来ている以上、地上から月に生き物が偶然紛れ込むなんて珍しい事ではありません。それに私達だってそうやって地上から月に移り住んだのですから」てえーりんが言ってた。
最終更新:2015年09月12日 11:58