関係あるとみられるもの
黒谷ヤマメ(東方地霊殿)
住所
葛城一言主神社 奈良県御所市森脇432
アクセス
JR和歌山線「御所駅」又は近鉄御所線「近鉄御所駅」より徒歩約1時間
葛城一言主神社
(大和)葛城山の東南麓に鎮座する全国の一言主神社の総社。一言主大神及び雄略天皇を主祭神とする。
西暦927年に著された「延喜式」において「葛木坐一言主神社」と記載され、名神大社に列せられている。
荘厳な寺社の多い
奈良県において特筆すべき規模のお社ではないものの、立派な階段を登った先の高台に建てられた本殿には格式がただよう。
境内には「宿り木」「乳イチョウ」と呼ばれる樹齢伝承1200年の銀杏の木がそびえ立っている。赤ちゃんの発育にご利益があるらしい。
葛城一言主神社の縁起としては、『日本書紀』第14巻に次のような伝承がある。
西暦5世紀ごろ、第21代天皇にあたる雄略天皇=大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこ)が即位して4年目を迎えた2月のこと。
早春の葛城山に狩りに出かけた天皇は、道中である谷間にさしかかった。するとそこで突然、やたらと背の大きな人間に出くわした。
「こいつ、顔が自分に似てるな・・・。」と思った天皇がまず「お前誰?」と問うと、背の大きな人間は「神やで」と答えた(だいぶハショってます)。
背の大きな神はさらに続けて「他人に名前を聞く時は、まず自分から名乗らんかい。」と言った。こういう礼儀は太古からあったらしい。
まあ尤(もっと)もだと思ったのか、天皇が素直に「幼武尊です。」と自分の名を名乗ると、神も自らの名が「一言主」であることを明かした。
その後、天皇と神は一緒に狩りをした。獲物の鹿を見つけても「あなたが仕留めなさい」「いやいやあなたが仕留めなさい」と譲り合うなど、
現代のサラリーマンのようななれ合いを楽しみ、それを見た人々は「天皇は本当に徳のあるお方…」と思ったという。実になんのこっちゃない逸話である。
また、『古事記』において一言主は「一言で善悪をはっきりつける程度の能力」という某閻魔様のような能力を持つと自称している。
これが転じ、現代では「一言でお願いすれば、どんな願いでも叶えてくれる程度の能力」というチート能力を持つ神であるとされる。
余談ではあるが、上述のように『日本書紀』中では天皇と一緒に狩りをし獲物を譲り合うなど「天皇と同格の神」として描かれる一言主は、
それより古い『古事記』では、一言主に出会った後に天皇が一言主を崇拝するようになったなど「天皇より上位」であるように表記されている。
ところが797年に書かれた『続日本紀』の25巻では、天皇と狩りの獲物を争った挙句怒りに触れて土佐国に流された、と書かれており、
さらに、822年の『日本霊異記』では、役行者(役小角)に使役される神として描写されるまでに没落してしまう。
このように、一言主は時代を下るにつれてなぜかだんだん扱いがひどくなっていく神としても有名である。
これらの現象は一言主を氏神とする賀茂氏の権勢が衰えるにつれ、神話上でも扱いがぞんざいになったという見方があるが、
その後、賀茂氏の盛衰とは無関係に信仰を取り戻したヤリ手っぷりについては、霊夢さんも見習うべき所があるだろう。
蜘蛛塚(土蜘蛛の墓)
一言主神社の一の鳥居をくぐってすぐ左にある、土蜘蛛の塚。井戸のような囲いに石が乗っているだけというシンプルな史跡である。
ここでいう「蜘蛛」ないし「土蜘蛛(つちぐも)」とは、多くの場合次の二種類の意味を持つ語である。
①神話時代の天皇に恭順しなかった人々への蔑称。『古事記』『日本書紀』に「土蜘蛛」や「都知久母(つちぐも)」の名で登場する。
また8~9世紀ごろに書かれた陸奥(青森)、常陸(茨木)、肥前(長崎)など日本各地の『風土記』にもたびたび「土蜘蛛」の表記が見られる。
『豊後国風土記』に土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)という記載があり、土着していた「土蜘蛛」の首長らが女性であった例もある。
無論これら「土蜘蛛」にされた土着勢力は人間であったはずだが、しっぽがある(大和)、耳が大きく垂れている(肥前)など、
人間離れした身体的特徴が挙げられることもあり、「人であって人にあらず(『古事記』)」と記載されることもあることから、
やがて土蜘蛛=妖怪とみなされるようになる端緒が、すでに古事記や風土記の成立時期からあったのではないかとも考えられる。
繰り返しになるが、基本的に単一の勢力又は特定の個人を指すものではなく、中央権力にまつろわぬ人々の総称である。
②蜘蛛の妖怪。「八握脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」とも呼ばれる。「源頼光(みなもとのよりみつ)」によって退治されたことになっている。
しかしその退治談については、全く異なる、二つのヴァリエーションが現代に伝えられている。
イ.御伽草子絵巻の一つ、『土蜘蛛草紙』らの土蜘蛛
ある日「源頼光」とその従者「渡辺綱」が京の北方の
京都紫野の蓮台野へ赴くと、そこで
空飛ぶ髑髏(どくろ)に遭遇した。
二人は髑髏を追いかけるうちに、
神楽岡(かぐらおか)の廃屋に行き着く。
そこでは老女(290歳)、異常な大きさの頭を持つ尼、器物の妖怪、鶏女、牛男など、多種多様の奇怪な人物や妖怪が次々と現れる。
最後に美女が現れ、鞠のような白雲を投げつけて頼光の目を眩ませる。頼光が美女を斬りつけると、白い血を残して消えてしまう。
頼光一行は、まるで白い河のように続く血痕を追っていく。やがてそれは西の山の洞窟に至る。
そこでふと刀を見ると、先が折れていた。美女を斬った時に折れたのだと悟った頼光は、その妖異の大きさに用心し藤や葛で身代わり人形を作った。
人形を先頭に立てて(人形はオートマーターなのか?)洞窟を進むと、やがて行き止まりに行きつく。そこには一軒の建物があった。
頼光の到着を待つかのように、建物の扉がギギギと開くと、中から錦をかぶったような巨大が土蜘蛛が出現する。ラスボスである。
そこで突然、先ほど折れた刀の先端が飛来して人形にあたる。
するとラスボスがすごいダメージを受けて死ぬ。エンディングだぞ。泣けよ。
頼光一行が死んだ妖怪を
司法解剖すると、その腹からは1990個もの死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出した。
ここにいたり、当初からの怪異の正体は全て土蜘蛛の仕業であった。という結論にいたったという。
非常になるほどわからん話である。
ロ.『平家物語「剣巻」』の土蜘蛛
ある時、頼光は熱病(マラリア)に冒されて伏せっていた。一ヶ月経ってもなかなか回復の見込みが現れなかった。
そんなある夜、身長7尺(約210センチ)の法師がやって来て、頼光を縄で縛ろうとした。
重病の頼光もこれにはばっと起き上がり、枕元の名刀「膝丸」で僧侶を斬りつけると、僧侶は逃走した。
翌日、頼光四天王らとともに僧侶が残した血の痕を辿って行くと、北野天満宮の後ろの大きな塚に行き当たった。
その塚を掘り崩すと、全長4尺(約120センチ)の巨大な「山蜘蛛」が現れた。「マラリアの原因もこいつに違いない」と確信した頼光は、
この山蜘蛛を生け捕りにすると、鉄の串に刺して、河原で晒しものにした。
その後頼光の病気はたちまち快癒した。頼光は僧侶を斬った刀の名を「膝丸」を「蜘蛛切」に改めたという。
非常に単純な話である。
また、平家物語のエピソードの流れを組むものとして、謡曲「土蜘蛛」がある。
熱病(マラリア)に冒された頼光の元に、身長2メートルの法師が「見舞い」と称してやって来た。
そのあまりの怪しさに、頼光が「お前のような僧侶がいるか」と看破すると、
「お前は知らんかもしれんけど、我は葛城山で長月をすごしてきた土蜘蛛の精魂(怨霊のようなものか?)やぞ!」
と逆ギレし、千筋の糸で攻撃してきた。「知らんがな」と思った頼光は、土蜘蛛を刀で切りつた上、逃げた土蜘蛛を部下とともに追った。
そして土蜘蛛の棲みかをつきとめると、ついにこれを退治した。
一言主神社の境内にはこの謡曲「土蜘蛛」についての由緒書きが立てられていることから、平家物語系統の「土蜘蛛談」を採用していることが分かる。
また、同社の由緒書きの中では、平家物語系統の「土蜘蛛談」の後日談にもふれられている。
頼光らが土蜘蛛を退治した場所には「頼光朝臣塚」の碑が立てられた。その塚から筒石が発掘され、ある者がこれを自宅の庭に置いたところ、
その者の家運が傾きはじめ病人が相次いだため、土蜘蛛の祟りではないかと噂されるようになった。
そこで、これを安置し土蜘蛛灯篭として
北野東向観音寺に祀ったところ、被害は収束したという。
「頼光朝臣塚」とは、
京都紫野の蓮台野に現存する頼光の墓所の事を言っていると思われるが、
なぜ頼光の墓の中に、土蜘蛛の祟りのこもった筒石が一緒に埋葬されていたのかは定かではない。
もしかしたら頼光に殺された土蜘蛛は、その死後もなお頼光を呪い続け
墓の中にまで憑りついていたのかもしれない。
だとすれば土蜘蛛の執念たるや尋常なものではない。うすら恐ろしい話である。
なお、葛城一言主神社における土蜘蛛伝説は、①と②(の平家物語系統の話)とをつなぎ合わせるものであるように感じられる。
①で列記した例と同様に、記紀神話の中で奈良地方に元々住んでいた民もまた「土蜘蛛」と呼ばれている。
奈良の「土蜘蛛」は神武東征(神武天皇が日向(九州)から近畿地方まで遠征し橿原宮(奈良)に遷都したとされる話)に激しく抵抗し、滅ぼされている。
特に葛城の「土蜘蛛」の抵抗はすさまじく、死後怨霊となることを恐れた神武天皇らは「土蜘蛛」の遺体の胴、首、手足らを分断した後に埋葬したといわれている。
これが葛城一言主神社の「蜘蛛塚」の本来の由来だろう。
一方②の説話の流れを組む謡曲の中で、怪物が「土蜘蛛の精魂」を名乗り「葛城山で長年を経た」と語っている。
すなわちその正体は、天皇家に滅ぼされた「土蜘蛛」らの怨念が、その蔑称のとおり本当に蜘蛛に化身して顕れたものとも考えられる。
もしそうであれば、妖怪としての土蜘蛛が平安中期の今日の都を荒らし回ったことも、朝臣である頼光の命を狙ったことも、退治されてなお強力な怨念で
呪いを残したことも、「大和政権への積年の恨み」と言う形でつながってくる可能性がある。
果たして葛城一言主神社の蜘蛛塚は神話(史実であった可能性もある)とお伽話の、両方の由緒を示すものであると言うこともできよう。
東方projectでは、「東方地霊殿」に登場する黒谷ヤマメについて、「土蜘蛛」がモチーフであると明記されている。
『東方求問口授』等において、黒谷ヤマメに出会うと高確率で「原因不明の高熱(感染症)に冒される」とされていることから、
マラリアのような症状を作為的に引き起こす能力を持っているものと考えられる。平家物語系統の土蜘蛛談と共通する事項である。
他方で、「黒谷」の姓について京都蓮台寺付近の「京都比叡山黒谷清寺」から引用され、御伽草子系統の土蜘蛛談も折衷されている可能性がある。
また、口授において黒谷ヤマメは「妖怪の山の風穴=幻想風穴」に住んでいると明記されている(旧地獄等に住んでいると誤解されがちだが)。
記紀神話においても土着の民が「穴住居」で生活しており、それが「土蜘蛛」の別称に繋がったこととも関連性が見いだせる。
朝廷を恨むことにとてつもない執念を見せつける伝承上の土蜘蛛であるが、他方で黒谷ヤマメは非常に明るい性格をしているとも書かれている。
長い年月を経て怨霊の蘇我屠自古の怨念が薄らいだように、黒谷ヤマメの精神性も徐々に変化を遂げたのかもしれない。
最終更新:2023年03月26日 12:44