住所


〒606-8331 京都府京都市左京区黒谷町121

京阪鴨東線「神宮丸太町」より徒歩30分
地下鉄東西線「蹴上」より徒歩30分
京都市バス32, 93, 100, 203, 204系統「岡崎道」より徒歩10分
京都市バス5系統「東天王町」より徒歩15分
有料駐車場あり(30台)

関係あるとみられるもの

黒谷ヤマメ(東方地霊殿)
九十九八橋(東方輝針城)

金戒光明寺

金戒(こんかい)光明寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院で、法然上人が承安5年(西暦1175年)に庵を結んだことに始まる。
これが法然43歳の時でありはじめて草庵を営んだ地であることから、ここが浄土真宗最初の寺院となった。
この地はもともと比叡山の黒谷青龍寺の所領であったが、指導者であった叡空が入滅(簡単に言うと死亡)したことに伴ってこの地を法然に分け与え
比叡山を元黒谷、ここを新黒谷と呼び分けるようになった。その後、単に黒谷(くろだに)と呼ばれるようになり、現在では地名になっている(左京区黒谷町)。
地元では「くろ谷さん」として親しまれ、高麗門の脇には「くろ谷」と書かれた石柱が立っている。

土蜘蛛退治には様々な伝説があるが、14世紀に書かれた絵巻物「土蜘蛛草紙」ではこう書かれている。
源頼光(伊吹童子退治した人)がその家来の渡辺綱(茨木童子の腕切った人)らと共に蓮台野(上品蓮台寺付近?)で空飛ぶ骸骨を見つけ、
それを追っていくと神楽岡の古い屋敷にたどり着いた。頼光らは次々と現れる妖怪たちに驚かされるがやがてこれを斬り殺し、その正体が土蜘蛛であることを知った。
源頼光と土蜘蛛退治の伝説に関しては、葛城一言主神社(土蜘蛛の墓)に詳しく書かれているのでそちらを参照。
神楽岡という地名は現在も残っており、金戒光明寺から100mほど北側の吉田神社周辺である。
この記述に従えば土蜘蛛は神楽岡で退治されたことになるが、「平家物語」の記述では「頼光らは北野神社裏手の塚で土蜘蛛を発見し殺した」とされており、
北野東向観音寺にはその伝説に従って土蜘蛛塚が存在する。
また、上品蓮台寺にもこの伝説に関連した頼光塚がある。

ちなみにZUN氏は黒谷ヤマメについて、源頼光に退治された伝説は全然意識していないとのこと(キャラ☆メルVol.7インタビュー)。

八橋検校

八橋検校(1614-1685.7.13)は江戸時代初期の盲人音楽家である。初名は城秀。出身は磐城(現在の福島県いわき市)が定説とされるが、摂津とする説もある。


金戒光明寺境内の墓地にその墓があり、その横にある碑には次のように書かれている。
八橋検校ノ碑

八橋検校ハ慶長十九年陸奥
岩城ニ生ル年少江戸ニ出デ
三絃ノ技ニ名アリ偶マ筑紫
筝ノ数曲ヲ学ビ眞諦ニ通ゼ
ントスル念止ムベカラズ奮
励艱苦ヲ冒シテ九州ニ下リ
終ニソノ奥義ヲ極ム業成ツ
テ京都ニ歸リ住ムヤ古典ノ
神韻ニ尚創意ノ潤飾ヲ加ヘ
テ組唄十三曲ヲ作ル律格調
和ヲ愛スル生来ノ好尚ト情
ニ厚ク感性ニ敏カリシ天稟
ノ鋭トヲソコニ併セテ古典
創作ノ大業ヲ新時代ノ意義
ニ於テ完成シ近世筝曲ノ開
祖トシテ世ノ尊崇ヲ受ク俊
髦ソノ門ニ集リ以後同流全
国ニ普及シテ今日ノ盛運ヲ
見タリ昭和九年第二百五十
年忌ニ際シ全国思慕ノ同志
塋域黒谷金戒光明寺内ニ碑
ヲ建テ後進邦楽家ノ上ニ及
ブ啓示ノ愈ヨ強力無窮ナラ
ンコトヲ期シテ厚ク検校ノ
霊ヲ祀リソノ偉功ヲ称揚ス

 文学博士 太宰施門 撰文
 大僧正 郁芳随圓 題字

 大日本筝曲會聯盟
ざっくりと現代語訳すると次のようになる。
八橋検校は慶長十九年に陸奥の国の岩城に生まれた。年少のころに江戸へ行き、三絃(三味線の別称)の技術で名を挙げた。
たまたま筑紫筝を数曲学んだところ、その真理に触れたいという思いを止められず、苦労しながら九州で学びついにその奥義を極めた。
京都に帰ってからは古典の韻に創意の潤飾を加えて組唄十三曲を作った。規則的な調和を愛する生まれながらの好みと
情に厚く感性豊かという天性の鋭さとを合わせ、「古典創作」という大業を新時代の意義で完成し、近代筝曲の祖として世の崇敬を受けた。
優秀な門下生が集まり、以後流派は全国に広がり今日の盛運を見ることとなる。
昭和九年第二百五十年忌に際し手全国の同志が墓所のある黒谷金戒光明寺に碑を建て、後進の邦楽家が上記の啓示に窮することがないよう期待して
厚く検校の霊を祀りその偉功を称揚する。

死後、その業績をしのんで琴の形を模した堅焼き煎餅が配られ、それが京都名物として有名な八ツ橋の発祥とされることもある。
その説を主張する会社の一つである老舗聖護院八橋は、金戒光明寺からすぐの場所に本店を構えている。

江戸時代の妖怪画集「百器徒然袋」に描かれている琴の付喪神妖怪「琴古主」について、画集の 作者の鳥山石燕はこう書いている。
八橋とか言へる鼓しやの
しらべをあらためしより
つくし琴は名のみにして
その音色をきゝ知れる
人さへまれなればその
うらみをしらせんとてか
かゝる姿をあらはしけんと
夢心におもひぬ
この画集は検校の死後およそ100年が経ってから書かれたものであり、八橋検校が筑紫箏をもとに創作を加えた近代筝曲が成立したことによって
本来の古典的な筑紫箏が失われてしまったことを示している。

室町時代の「百鬼夜行絵巻」にも琴の妖怪の姿は描かれており、琴古主はこれをもとにして描かれたという説もある。

九十九八橋の二つ名が「古びた琴の付喪神」であることから、琴古主を土台としてそれと関連する八橋検校の名を取ったと考えることができるが
公式によって明言されたことはない。
ちなみに「百鬼夜行絵巻」では琴の妖怪の隣にそれを引っ張る琵琶の妖怪の姿が描かれている。

八橋検校の墓は山門をくぐって右手の道から墓地へ行き、階段を一番上まで登り切った先にある三重塔の裏側にある。
周りに宮内庁管轄の天皇陵や倒れた墓石などが転がっているので注意。


  • 八橋検校の業績について、箏に詳しくないので調べてもよくわかりませんでした。誰か加筆訂正をお願いします。 - 名無しさん 2015-07-24 21:26:22
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最終更新:2015年12月16日 13:40
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