Paludisme / 2 ―



火は燻り続けている。

澱んだ匂いがする。
ポケットハンドをしながら、雨で溢れた下水をブーツの底で踏み付け飛び散らす。
春先の冷えた夜風が身体に染みる。今日はかなり温度が低く、口から出す空気は微妙に白く濁っていく。
ゴミ捨て場から生ごみの腐敗臭が溢れ出し、汚い空気が環境を支配したビルの谷間。
室外機の群れを掻い潜り、街の暗闇を目指し進んでいく。
まるで洋画で見るスラム街のような雰囲気であるが、大通りからあまり離れているわけではない。
現に室外機以外にも車道を横行する車や遠くを走る電車の環境音が耳に入り込んでいく。
しかし人気は不自然なまでにない。
気配の無さがそのまま違和感、異物感に繋がり、逆に存在感を醸し出していく。
何者かがここに「近寄るな」と主張しているかのようであった。
その警告を当然の如く無視し、無造作に、かつ傍若無人に踏み荒らしていく。
苛立て。怒れ。激高しろ。俺は、お前、いや。


お前達に喧嘩を売りに来たのだ。



レネゲイドビーイング。俺はそういったカテゴライズの存在だ。
ウィルスそのものが高度な知性をと明確な意識を持ち、一個の生命として活動しているものをそう呼ぶ。
人間の姿を持ってはいるが、人間の女性の母体から生を受けたのではない。
俺はとある男の分身として創造された。
その男の半生の記憶を引き継ぎ、その男の力の半分を引き継ぎ、その男の宿命を引き継いだ。
同じ歴史を持ち、同じ記憶を持ち、同じ人格を持つ、正に男の分身。
本物か、偽物か。そんなことは些細な違いでしかない。真偽などというものは時に無価値になる。
人間として生を受けたか、化物として生を受けたか、その差でしかないのだから。

その男は、自身の力と戦い続けていた。
衝動を抑え、レネゲイドウィルスを操り、暴走を防ぐ。それはオーヴァードならば誰しもが通る道。
レネゲイドウィルスに体を乗っ取られてしまったのであればジャームという存在に変貌する。
ジャームは理性を失い、心を失い、魂も失ってただ衝動と欲望のままに行動する怪物となる。
ジャームになるということは全てを失い、欲望のままに破滅へと突き進んでいく事を意味する。
それはオーヴァードとして許されざることである以上に根本的に耐えがたい恐怖なのだ。
しかしオーヴァードとしてジャームすることは珍しくなく、むしろ統計的には五割を超えるらしい。
常に、化け物になるという恐怖と戦いながらオーヴァードは生きている。

男の中に内包される力は悪用、もしくは暴走すれば国一つ程度ならば簡単に滅ぼせるようなものであった。
男は人格者だった。あまりにも普通の人間として正しすぎた。
こんな力を使ってはならない。こんな力を持ってはならない。こんな力があってはならない。
正しい常識。正しい評価。正しい認識。正しい価値観。
それはとても正しかった。しかし正しさは時に最悪の毒となる。
悪意と憎しみから来た、実に正しく、完全に人として間違った言葉を俺に投げつけた。

化け物。と。


俺はその男の事をぐちゃぐちゃとした感情でしか語ることが出来ない。

理解していた。憎んでいた。敬愛していた。嫉んでいた。尊敬していた。憐れんでいた。
殺してやろうと思った。助けたいと思った。謗ってやろうとと思った。力になろうと思った。

まるで子供だ。


プライドだけが肥大化し、肯定も否定も出来ず、ただ暴れている。
脈絡がない矛盾した感情が、混沌としたまま俺の中で燻っている。
あの男は話す機会をまともに得れぬまま、死者という無敵の存在になってしまった。
生きる意義を失い。目的を失い。彷徨い。喧嘩に明け暮れている。
ただ、俺はあいつにはなれない。絶対的なその事実を突き付けられ、途方もなくただ彷徨っている。


羽音。

凍ったような思考が現実へと引き戻す。
頭は鏡のような水面の如く、澄みきっていたが、その水温は間違いなくマグマのような熱を帯びていた。
熱血にて冷血。激情と冷徹さを兼ね備え、感情と思考が完全に分離していた。


飛びかかる影。


ウィンドブレーカーのポケットから両手を取り出し、拳を胸元に上げ両脇を絞めた構えを取る。
我流の喧嘩用格闘技のため、空手やボクシング等がミックスされている。
しかし、根本は拳を突きだすための構えだ。拳があたりすればいい、そう思いながら両の拳から炎を灯す。
顔を紅く染め上げたその炎はサラマンダー・シンドロームに分類される能力群の基本的な超常能力。
加速する感覚。緊張。アドレナリンの苦みが口の中を支配する。影の姿を認識し終えた。
さぁ、害虫駆除の時間だ。

「その熱、貰い受ける。」

有象無象が焼け焦げる匂いがその場を支配していった。





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梅酒 SS
最終更新:2013年05月08日 00:12