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tohohopeacewalk

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K-K - 02/06/05 00:10:27
電子メールアドレス:渡辺さんへ

コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、渡辺さん。

 私もこれを機に、中帰連の購読を申し込みました。 夏号を楽しみにまっています。

渡辺 - 02/06/04 02:10:50
電子メールアドレス:「中帰連」など


コメント:
ゆうさん:>
>早速、「定期購読」の申し込みをさせていただきました。

ありがとうございます。
「中帰連」に偏見を持っている人がいるのは残念です。
私も購読者の一人にすぎませんが、その志が受け継がれるよう願っています。

最新号(夏号)は第21号でした。ちょうど1年分、4回の連載になるそうです。
内容的には、4回では足りないので、Timperleyの更に詳しい"伝記"は、別の機会をつくって発表します。

Timperleyがジャーナリストというのは、その人生の一部分にしかすぎず、なかなかの人物であったことが分ってきました。これは、 Timperley について(誠意を持って)調べた人が共通にいだく印象のようです。大きな仕事をしても前面に出ないような立場のことが多い上、地味な性格で目立たないわけです。

原稿に添えた写真は、多分1930年代のものですが、聡明で誠実な感じで、誰もがハッとするような風貌です。
他の写真も見ましたが、ネクタイと胸元のハンカチはトレードマークみたいです。写真からは、わかりませんが小柄で、かなりタフな人だったようです。

つまらなさそうな事でも、確認するのは大変で、調べるといろいろ出てきます。

ゆう - 02/06/02 07:58:24
電子メールアドレス:「中帰連」申し込みました


コメント:
早速、「定期購読」の申し込みをさせていただきました。

楽しみにしています。

渡辺 - 02/06/02 04:09:45
電子メールアドレス:中帰連


コメント:
季刊「中帰連」20号が6月に発行されます。
小生の 北村稔『「南京事件」の探求』批判の第一弾が掲載されることになっていますので、下記URLを通してお買い求めください↓。
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/
評判がよければ、しばらく連載されます。

以前、投稿したものがベースになっていますが、印刷されて出版されれば厳しい目で見られますので、より厳密に考証して記事にしました。今回の内容は「ティンパーリーの略歴」、「北村氏の誤読」、「曾虚白自伝の誤り」、「身元を秘さなかったティンパーリー」などです。
従来、あまり知られていないティンパーリーの写真が(編集部が忘れていなければ)掲載されるはずです。
ティンパーリーの略歴も、いままで発表されたものに比べると、詳しくなっています。
1937年の9月頃、南京で結婚した元奥さんの証言にも言及しましたが、ティンパーリーの経歴については、更に詳しく調べてから別の記事にする予定です。
なお、今回の記事にはあまり詳しく書きませんでしたが、身元を秘したティンパーリーという北村説は 大笑いで、記事は書く、演説はする、ニュース映画には出るで、全く身元を秘してはいませんでした。

これを機会に、季刊「中帰連」を購読ください。

渡辺 - 02/06/02 03:17:38
電子メールアドレス:便衣


コメント:
掲載用に修正するので、しばらくお待ちください。

「便衣」は中国語で「平服」のことです。

上海戦で消耗していない部隊を南京の最前線に送ったのです。
南京攻略部隊でゲリラにであった可能性があるのは、百一師団です。元同盟通信の前田雄二氏『戦争の流れの中に』(善本社)P20によると、百一師団のこととして、参謀から「男だけでなく、女までが、隠し持った小銃や手榴弾で、不意に日本兵を襲った」と聞いたとのことです。
上海ではテロもありましたから、こういうことが皆無であったとは思いませんが、従軍日記や実体験を探すと、なかなか出てこないので、よくあることではなかったのではないかと疑っています。陸戦隊なら、何か出てくるかもしれませんが、海軍関係は証言や資料があまりないんです。
それから、それがテロであるのか、正規兵が平服で襲撃したのか、そういうこともはっきりしないんですね。

ところで、「百一師団の参謀たちは、こういう状況の中で、老人子供のようにハッキリ非戦闘員と分るものは別として、住民といえども敵として扱わなければ危険であることを強調した」P21 ということです。
杭州に上陸した 第六師団の通ったあと2,3キロに渡り「犬猫でさえ死に絶えていた」P52 凄惨なものだったようですから、ゲリラというのは口実で、あまり関係ないのでははないかと思います。
『戦争の流れの中に』で、初めて知ったのですが、同盟の記者も拳銃で住民を脅して荷物を運ばせようとしたというのですから、むちゃくちゃです。一部始終をじっと見ていた子供の目が恐ろしかったと前田氏は回顧しています。(P48-)
建前は蒋介石だけを敵としても、実際は民衆が被害を受けるわけですから、民衆がすべて「敵」に見えてくるわけです。

とほほ - 02/06/02 02:28:21


コメント:
|>>ただし、便衣兵狩りと称して上海市内の家屋を探索した事実はあるが、私
|>は 戦闘で「便衣隊の存在を経験」したとする記録を いまだ見つけることが
|>できない。
|>
|>ありゃ、そうだったんですか。私は何となく上海戦では「便衣兵」が活躍し
|>たかのようなイメージを持っていたのですが(「否定本」に毒されています
|>ね(笑))、よく考えると、確かに具体的な記述にお目にかかった記憶がな
|>い。

私も勘違いしてました(^^;
自分のHPでも便衣兵狩りが熾烈であった根拠として上海戦での便衣隊の存在を根拠にしてしまっている(^^;(^^;

でもそうしますと
「一、遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるをもって、 その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す一、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし 」
とかいうような上層部の判断というのはただ単に「ゲリラ戦に警戒する」というだけのものだったのですかね?大体「便衣」と言う言葉自体いつ頃から何に対して使われるようになったのですかね?これって中国語ですか?

ゆう - 02/06/01 08:35:00
電子メールアドレス:「論文」の感想


コメント:
まだ十分読み込んでいないうちの「部分感想」で申し訳ありません。

「別途、構成を変えて発表」されるとのことですが、K-Kさんのおっしゃるように、ぜひ、今の時点でのHPへの追加をお願いします。そうすれば、「北村信者」への説明は、リンクを貼るだけで間に合いますから。(笑)


とりあえず、「3 捕虜の処遇について。虐殺か処刑か」の最初の方です。

誰が見たって単なる「虐殺」でしかない「安全区の敗残兵狩り」を、いかにして「虐殺ではない」と理屈付けるか。「否定論者」にとっては、大きな「テーマ」です(笑)。なお、「第七連隊戦闘詳報」の記載にある、「六、六七○」名の「敗残兵」が「刺射殺」された事実についてまで否定しようとする論者は、私の知る限り存在しませんので、この「事実」は議論の前提です。


(渡辺さん)
>最初に指摘したいのは、著者が兵が軍服を脱いで平服でいることと「便衣兵」すなわちゲリラであることを、しばしば区別しないで述べていることである。
>「便衣兵」などとなぜ呼ぶ必要があるのか?ゲリラあるいは不正規兵と呼ぶべきではないのか。

そう、そうです。「便衣兵」とは、「戦闘継続を目的に安全区に潜伏した兵士」と定義できると思います。「敗残兵」のほとんどは「戦意」を失って「安全区」に逃げ込んだのであり、この定義に沿う「便衣兵」(ゲリラ)が、仮に存在したとしてもごく少数であることは、「南京事件」にまともに取り組んでいる方でしたら一見して明らかなことでしょう。「便衣兵」問題は、「虐殺」の言い訳には全くなりません。


(渡辺さん)
>ただし、便衣兵狩りと称して上海市内の家屋を探索した事実はあるが、私は 戦闘で「便衣隊の存在を経験」したとする記録を いまだ見つけることができない。

ありゃ、そうだったんですか。私は何となく上海戦では「便衣兵」が活躍したかのようなイメージを持っていたのですが(「否定本」に毒されていますね(笑))、よく考えると、確かに具体的な記述にお目にかかった記憶がない。

手持ちの本をパラパラめくっていたら、「便衣兵」とはちょっと違いますが、辛うじて、鈴木明氏「南京大虐殺のまぼろし」に、次の記述がありました。

<第三師団の先発梯団が本船から呉淞桟橋に上陸しようとしたとき、桟橋の上には、日本の愛国婦人会のような恰好をした多数の女性が、手に手に日の丸の古旗を持って迎えたというのである。兵士たちは安心して、次々に桟橋に降り立ったが、それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちにして消え、次に展開されたのは、中国軍の凄まじい一斉射撃であった。不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった。>(P155~P156)

そういえばこの話を、他でもどこかで見たような記憶があります(どこかの「掲示板」だったかな・・・)。しかし、私にはこれの根拠となる「一次資料」がわかりません。果たして、信頼できる話なのかどうか・・・。私にとって「南京事件研究」の最大の教訓は、「もっともらしい話でも、自分で裏をとるまでは信じるな」ですから(笑)。


そのあとのクレーガーとハッツの目撃証言に関する記述も面白いところですが、「感想」があまり長文になっても申し訳ないので、このへんで。


(渡辺さん)
>掲示板浄化のため、いそいで投稿しましたので

私も、前回投稿は、「掲示板浄化」のサポートのつもりもありました(笑)。


しかし、「掲示板」更新のピッチが、えらく速くなっています。今年に入ってから、次でもう5回目の更新になりますね。この賑わいに、私もちょっぴり貢献しているかな(笑)。

K-K - 02/05/31 23:09:40
電子メールアドレス:こんにちは、渡辺さん


コメント:
 K-Kです。
 こんにちは、渡辺さん。

 すごい!!
 うーん、これは早くHPに移行させたいですね。
 草稿ということですが、仮にHPに載せておくというのはどうでしょう?この掲示板も相当大きくなったので、新しい板に変えなければなりません。過去ログとして残りますが、やはり、この労作を過去ログに置いておくだけではもったいない。
 ぜひ、お願いします。

渡辺 - 02/05/31 12:17:57


コメント:
ゆうさん、
掲示板浄化のため、いそいで投稿しましたので、誤字誤植、わかりにくい表現、訂正したい箇所などありますのでご了承ください。
この文章は、北村批判の一部の草稿として作成したものですが、事情がありまして別途、構成を変えて発表することになりました。
ということで、参考としてご覧ください。

なお、東京裁判の日本語訳の記録は、その場で翻訳されたもので、必ずしも正しくありませんので、引用するときには注意が必要です。数字などは、転載のとき間違ったものもあるようです。
東中野「徹底検証」P311~も、間違った数字が資料に記録されているのですが、東中野氏は、ただ批判をすればいいという姿勢なので、その基になった資料をチェックしていません。(例えば、「?新河地域」の数字は一桁少間違っています)
判決文中の「その死体は切断された」で「切断された」という表現が、裁判資料にないと思われる人がいるかも知れません。これは mutilate の翻訳で、この場合は「切断された」ということに限定されず、遺体を傷つけるような行為全般を意味しています。



ゆう - 02/05/29 22:26:49


コメント:
待ちに待った、渡辺さんの大論文がアップされました。「南京事件の探究」を片手に、ゆっくりと読ませていただくことにします。

しかし、最初の方の北村氏の文、

>南京の裁判では、 WHAT WAR MEANS はすでに述べた『スマイス報告』とともに、「大虐殺」を立証する重要証拠として判決書に特筆された。

は、確かにおかしいですね。例えば、洞氏の、「決定版 南京大虐殺」には、こうあります。

<極東軍事裁判でも、検察側はこの調査書を証拠として提出していない。その資料的価値を認めなかったからであろう。なお、この報告はむしろ被告にとって有利な証拠とみなされなくもないのだが、にもかかわらず、弁護側はこれを書証として提出しなかった。この資料の示す数字の信憑性については、弁護側さえ疑問視していたからであろう。>
(P155。なお、この掲示板の常連の皆さんには解説は不要かと思いますが、念のために付記しますと、洞氏は「スマイス調査」の数字が過少である、と考えているわけです)

少なくとも、中国側の主張する「大虐殺」の根拠としては、「スマイス調査」では弱い感は否めないでしょう。


なお、洞氏で思い出しましたが、東中野氏も、北村氏と同じように、やはり洞氏を「誤読」した批判をしています。

(以下引用)
<たしかに、ティンパーリ編「戦争とは何か」第四章末尾の匿名原稿は、昭和十三年一月中旬のこととして、「この避難民の数が、恐らくこの避難民地域で十五万人かそれ以上、我々の避難民キャンプで恐らく六万人と大きくなるにつれ、今や我々は大きな避難民問題を抱えるに至った」と記している。
この匿名原稿を典拠として、洞富雄氏は、前者の十五万人を安全地帯内の人口、後者の六万人を安全地帯外の人口と解釈した。一読する限り、そのような解釈も可能であるかのように思われる。
(中略)
しかし『チャイナ・イヤーブック』一九三九年版は、一九三八年初めの国際委員会の救済活動に触れて、次のように記録しているのである。
<この責任は軽いものではなかった。緊急事態のピーク時には約二十五万人の避難民が安全地帯に避難し、そのうち七万人近くが二十五ヶ所の藁小屋キャンプに仮住いした。そして残りの人々は、雨宿りできるところならどこでも捜し出したのである。>
これによれば、二十五万の避難民が安全地帯に避難した。そのうちの七万人が藁小屋キャンプで過ごしたというのである。これによって、避難民キャンプと避難民地域が、安全地帯の中にあったことになる。>
(「南京虐殺の徹底検証」P294~P295)


確かにこりゃ変だ。そもそも、何で「我々の避難民キャンプ」が、「安全地帯外」にあるんだ? 実は私も、ごく最近、洞氏の「南京大虐殺の証明」を読むまでは、この東中野氏の記述を信じていました。(笑)


実際の洞氏の文を引用すると・・・

<私は、十二月十三・十四両日の城内掃蕩が終わったあとの南京城内残留市民の人口は二五万人くらいで、十二月下旬のピーク時には、そのうちの約一五万人ほどが安全区に集住し、一○万人近くが安全区外の住家にとどまっていたものと考えている。安全区内の人口を一五万人としたのは、同区内最大の難民収容所となっていた金陵大学の管理責任者ベーツ博士が、上海の友人に送った一九三八年一月十六日付書簡に、「おそらくこの難民区内の総数は十五万人以上、われわれの収容所では六万ぐらいです」とみえているのによる。>(「南京大虐殺の証明」P115)
   

洞氏は、「安全区内の人口」十五万人の推定根拠として、このベーツ書簡を使用していたに過ぎません。「六万」は、「安全区外の人口」とは、全くリンクしていません。(安全区外の人口「十万人近く」の根拠がよくわかりませんが、それはまた別の話です)

だから、東中野氏の記述は、「原典」に当たるまでは絶対に信じられない(笑)。ま、ご参考までに・・・。


さて、渡辺さんの大論文を、読ませていただかなくては。
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